人穴富士講遺跡の丸宝講供養碑と足利の墓碑

丸宝講と足利

岩科小一郎著『富士講の歴史-江戸庶民の山岳信仰』p241に、丸宝講の最古先達 藤左衛門 寛政3没とあり、丸宝講の分布として(千葉)宝珠花、木間ヶ瀬、東魚沼、下吉羽 栃木)足利と記載されている。

静岡県富士宮市にある人穴富士講遺跡に、下州江戸川通宝珠花町の古久保氏が建てた寛政3年没(1791)藤左衛門の供養碑があり、その隣に下野足利町小沼氏の供養碑があるので、これが上記の本にある栃木足利の情報源かと思われる。

 

 小沼氏の供養碑と墓碑

人穴の供養碑正面は女性を右側に「淨徃院楊譽貞心大姉 晴乗院了譽即法居士

右面「寛政七卯年六月六日 下野足利町小沼氏」

左面「寛政七卯年六月六日」とあり、足利町の薬種商松屋小沼氏を連想する。男女両名が同年月日に亡くなっているので、墓碑さえ残っていれば見つけるのは簡単。

 

足利市巴町の浄土宗法玄寺にある墓碑の正面には女性を右側にして「淨徃院楊譽貞心大姉 了譽照光喜法居士

右面「寛政七卯年六月六日 小沼仁兵エ富久娘

左面「寛政七卯年六月六日 小松屋内 喜七」とある。人穴と足利では男性の戒名に違いが見られる。

 

菩提寺以外で授かった戒名はトラブルになりやすく、付け直しもあると聞くが、江戸時代はどうであったのだろう。

すでにある戒名に後から院号を求めた場合にも、付け直しになるか。

 

人穴富士講遺跡を管理していた赤池家には、丸宝講から水死人や若い女性の供養依頼があり、その代金や地代金を受け取った記録が残されている。講社から依頼があれば女子供でも供養碑が建つ以上、小松屋内喜七が丸宝講の先達かどうかは不明。

丸宝講が人穴に供養碑を建てる基準は、先達がどうこうというよりも、せめて極楽浄土では幸せになってほしいと願うような死因を持つ人達という印象を受ける。宝珠花河岸の有力者である宝珠花御三家が浄土宗の信徒であったことも影響しているか。

 

 仁兵衛富久の辞世

 

富久は寛政7年より前にも、院号・譽号を授かる二人の娘を亡くしている。

寛政7年は富久47歳、弥陀の土にく娘は20代で喜七は後継者候補か。二人の命日は六月六日、富士山の山開きと時期が重なるのは気になるところ

 

先に亡くした娘二人の追善供養碑が人穴に無い。喜七の戒名が異なる。下野足利町小沼氏という表現。人穴に供養碑を建てたのは小沼家ではないのかも知れない。

 

 

 余談

足利市大月町西耕地にある仙元宮には、冨士一山教会講社のマネキがある。奉納したのは下野国足利郡田中村の田部井孝行であり、元大先達として澁澤徳行、山田第行、正田正行と記載され、マネキを見た人にも足利郡田中村の講社(丸万字講)の師弟関係がわかるようになっている。

人穴富士講遺跡には、山田第行など門人らで建てた澁澤徳行の供養塔がある。極楽浄土に生まれ変わることを願った追善供養というよりも、長谷川角行が眠る地に建てられた顕彰碑という感じ。当然ながら講社によって人穴に碑塔を建てる目的は変わってくる。

 

 山田第行は、人穴の供養碑では㐧行、足利のマネキでは弟行と記されている。

 

 

 

足利の法玄寺には有名な書家のお墓もあり、墓碑の書体が特徴的。

 

墓碑の白い靄はカメラマンの服が反射したもの、レフ板代わりの服を脱ぐべきであった事例。

丸万字講 正田正行の富士登山三十三度碑に見る講中・支援者

栃木県足利市田中町の女浅間神社にある、丸万字講の先達 正田正行の富士登山三十三度碑が建てられたのは嘉永元年(1848)四月。

嘉永二年四月に 正田正行の大願成就碑が建てられ、喜びが北口に表される。

足利市指定文化財「回漕問屋忠兵衛の石燈篭」と同じ、北猿田河岸の石工 高瀬鹿蔵の作であるが、表面の剥離がひどいため年々読めなくなっている。四字熟語である〇運長久の頭は読めないので、国でも家でも武でもOK

どちらの石碑も四月に建てられたもの。初山(富士山の山開き)は六月なので、登山三十三度達成が1847年、大願成就により大先達になったのは1848年だろうか。

 

 

全く関係ないが、葛飾北斎の没年が嘉永二年四月。日本映画『HOKUSAI』では、決して動かない北極星にちなんで画号を北斎にしたというシーンがある。また川柳では「卍」という柳号を使った北斎。正田正行が大先達になったのは、そんな「画狂老人卍」が数え90で亡くなる頃の話し。

 

 

 三十三度碑に見る講中・支援者

足利町には足利学校があり、学力向上によって町が発展したのかと想像していた。実際は近江商人や新潟、東北から移り住んできた人によって形成された町なのだという。

 

 (参考) 

足利買場・67 日間の航海を終えて

 

 

足利新田町の先達 正田正行の三十三度碑に見る、近江屋・日野屋・釜屋などの屋号は近江商人を連想する。買次や醸造業で活躍していそう。

 中町 近江屋久兵エ

  日野屋新助

 中町 釜屋重兵エ

 

 

 買次商 釜屋重兵エ

天保八年(1837)十二月の足利新田町を、明治期に書き写した古絵図に、新田中町(通称新中町)の「釜屋重兵エ居宅買場」が記載されている。釜屋は足利買場(織物市場)の買次商だとわかる。

 

正田正行の三十三度碑や上記古絵図の他、佐野市飛駒町には根本山神の道標「一り十一丁目 野州足利新中町 釜屋重兵ェ」が現存する。黒沢西川に沿って根本山道を登って行く山の中にあり、現在は倒木や土砂崩れが多い危険な古道。

写真の西川左岸はコンクリートで整備されているが、その上の道は土砂に埋まっている。戦後もこの道は、マンガン鉱山の労働者が歩いて職場まで行く通勤路であった。

掘り出したマンガン鉱は索道(スキー場のロープリフトのようなもの)で、西川下流の花木まで運び、小型トラックに乗せて足利に運んでいた。閉山後に花木は無くなり地図にも地名が記載されなくなったが、当時は飛駒村黒澤の花木集落が、飛駒足利線の起点であった。

足利市通二丁目の通称井草通りで、県道67号に当たるところが県道208号飛駒足利線の終点。

釜屋がいつまであったのかは不明だが、重兵エが道標を建てた根本山道から飛駒足利線が始まって、釜屋重兵エ居宅買場があった近くに終点があるというのは面白いと感じる。重兵エが歩いた根本山への参詣路とかぶる道筋もあるかもしれない。

 

 三十三度碑に見る甲州

正田正行の三十三度碑にある甲州屋文七と甲州屋長蔵。差別化なのだろうか、屋号にこだわりを感じる。

 

正田正行の三十三度碑と大願成就碑に見る「小沼仁兵衛」の話し。

 三十三度碑 中町 同(小沼)仁兵エ

 大願成就碑 中町 小沼仁兵衛

 

小沼仁兵衛は、新中町で薬種商「小松屋」を営む店主の襲名。江戸時代は、小松屋仁兵衛とも称していた。上記の者は仁兵衛高徳。

 

明治期の小沼仁兵衛 富士山・太陽・たなびく雲からの帆先・跳ねる波と岩礁・女子供の目線・女児の髪・指先・袖の紋に至るまで「胃活」に視線誘導するこだわり。

 

明治期の小沼仁兵衛 店の前が現在の県道67号桐生岩舟線(通称中央通り) 旧50号という人もいる。 N↓

 

  N↑

現在でも小松屋・仁兵衛の名を見られるのが足利のすごいところ。鎌倉時代建立の鑁阿寺が残っているのはさらにすごいこと。足利東映プラザ劇場は無くなったが、釜飯がおいしい銀釜も、この立地で商売が成り立つのがすごい。

 

 人穴に見る下野足利町小沼氏

 富士山の西の裾野にある人穴

先代の仁兵衛富久の娘、寛政七年没(1795)の供養碑が、世界遺産富士山の構成資産である「人穴富士講遺跡」に建てられている。

字面だけ拾えば「富久娘」であり、看板娘として活躍しそうだし、縁起も良さそうだが、下野国足利市通2丁目)の薬種商の娘の供養碑を駿河国富士郡人穴邑(静岡県富士宮市人穴)に建てる理由があるのだろう。

 

正田正行の三十三度碑が嘉永元年(1848)、年一回の富士登山として33年を引いても富久の娘の没年には20年足りず、富久の没年から考えても正田正行の講中ということはない。人穴にある丸万字講の石碑は、文政十一年(1828)六月に建てられた武州忍領小針村の大先達 渋澤徳行の供養碑のみであり、仮に富久が徳行の講中だったとしても、先達でもない家族の供養碑を手配してくれるとは思えない。

 

小沼氏の供養碑は丸宝講の碑塔群にあることから、浄土院大日堂を管理していた赤池家に建立を依頼したのは丸宝講だと思われる。丸宝講では女子供の供養碑も、赤池家を通じて人穴に建てていた。

大先達 渋澤徳行と比較しても、丸宝講の供養碑は全体的に小さい。黄色い数字は記されている戒名の数。赤文字は女性の内訳、その下は男児女児の内訳である。左から4番目・8番目などは女子供だけの供養碑。

 

赤池家の資料に、丸宝講との記録が残されている。供養碑を一基建てるのに丸宝講が支払った代金の一例では、地代が一両、石碑が三両。

 

下野国下総国

ここにある丸宝講の碑塔には下州(ここでは下総国をさす)と記されているので、仮に下野足利町小沼氏の供養碑が渋澤徳行の近くに建てられていた場合でも、境内を整理するときに丸宝講の碑塔群に紛れ込む可能性が微レ存(微粒子レベルで存在するかも知れない)

 

 西の浄土 人穴

富士山のほぼ真西に位置する人穴。西の裾野を通り抜ける中道往還(甲州街道)沿いにあったので、参詣者の他にも休息に立ち寄る者もいただろう。

人穴浄土門は、阿弥陀仏が住まう西方極楽浄土へのゲートであり、人穴は西の浄土であった。

 『富士講唱文独見秘書』には「ふじのすそ野の西口に南無阿弥陀仏の浄土ありぬる」という歌が記載されている。

 

下野足利町の小沼氏は浄土宗の宗徒(南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで、極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰者)なので、屋号の小松屋も、浄土宗開祖 法然上人の歌にちなんで付けられたのかも知れない。

小松とは「上人が住まう小松谷の空に浮かぶ雲を、枝で支えているかのように見える、樹齢千年はありそうな松」のこと。

人穴の供養碑に記される小沼氏も院号・譽号がつく戒名であり、お墓は足利の浄土宗法玄寺にある。

 

 人穴碑塔群の情報を、誰から得たのか。

 供養碑を建てることを決めたのは誰か。

丸宝講が赤池家に依頼して建てた供養碑と仮定したとき、誰が丸宝講に依頼をしたのかが気にかかる。色々なパターンを考え付くので、勝手に妄想するしかない。

 

江戸川宝珠花河岸に立ち寄る可能性がある人物は無限。

薬種商であれば、江戸日本橋から薬を仕入れていただろう、飛脚や回漕問屋から情報を仕入れたかも知れない。

合薬を行商する近江商人が店に立ち寄ったり、となり近所に住む釜屋なども情報源になったかも知れない。

伊吹山もぐさを仕入れていた足利の小泉藤蔵や上州桐生の釜屋も気にかかる。

桐生の近江商人 近江屋(矢野家)の古文書に、小松屋仁兵衛の名を見る。

富久の娘が人穴の話を聞けば、供養碑建立を遺言したかも知れない。同じ供養碑にある男性の親族・友人知人が建てたのかも知れない。

武州小針村 澁澤徳行の門人である、野州久保田村の大先達 山田第行から人穴の情報を仕入れたのかも知れない。

etc…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丸宝講と足利。江戸川の河岸場と近江商人の話

丸宝講と足利

江戸初期より江戸川を開鑿。下総国葛飾郡宝珠花村は川で分断され、東西宝珠花村になる。江戸川右岸の西宝珠花河岸は、江戸川舟運の寄港地として栄えた。

 

浅間社を崇める宝珠花村の人々が、富士登拝のために作った講社が丸宝講。

 

下総国武蔵国は川を国境にしていたが、江戸川右岸にある飛地の西宝珠花村は下総国であった。時代を無視して乱暴に言えば丸宝講は千葉県発祥の富士講

 

渡良瀬川舟運の最上流である足利の猿田河岸から、年貢米や消費都市江戸へ物資を2日で運んだ船に乗って下れば、西宝珠花は近い。

 

宝珠花~足利間にある関宿・古河・佐野・館林にも丸宝講はあったので、足利に丸宝講社or講員があってもおかしくないが、実際にあったのかどうかは不明。

 

群馬県館林市にある丸宝講の富士塚と、明治15年の(富士登山)七十五度御礼碑。江戸時代から登拝していたのだろう、先達の役目であっても75回登るのは大変。

 

栃木県佐野市伊保内には丸宝講(先達 廣山照行)と丸万字講(先達 岡田廣行)があった。現在の伊保内には、明治になり冨士一山教会の傘下となった丸万字講が建てた「仙元大神」石祠だけが残る。額は「冨士一山」

 

丸宝講の痕跡としては、伊保内から少し北上した佐野市田島町の坂和神社の境内にある浅間神社にマネキがある。数年前の時点で、社殿の屋根が半分ほど崩落して倒壊しそうな状態であった。

 

 

 

宝珠花御三家

河岸場として栄えた西宝珠花で、宝珠花御三家と呼ばれた有力者に釜屋があり、近江国辻の鋳物師を祖とする近江商人の子孫だという。

近江商人の行商する漆器椀や合薬は有名であったが、釜を背負って行商するわけにはいかないので、鋳物師から廻船業や醸造業に職を替える者がいた。

近江~会津間で行商する人が増えた背景には、藤原秀郷の子孫であり近江日野城主・会津若松城主・下野宇都宮城を務めた大名「蒲生氏」の絶家があるという。多くの浪人が出たのだろうし、会津や宇都宮を知る者もいただろう。

 

足利の近江商人(参考)

 近江国の日野商人である中森彦兵衛が、下野足利町へ出店して酒造業を始めたのは宝永元年(1704)。成功者がいる町には立ち寄る近江商人も増えただろう。昭和33年(1958)調べの「栃木県清酒製造業従業員名簿」には、足利市の中森酒造株式会社 従業員7名が記載されている。戦後まで続いた酒造会社もなくなってしまった。

 明治27年の「足利市中案内双六」より抜粋 通5丁目 酒醸造 何代目かの中森彦兵衛
 *足利市ではなく市中。市制施行は大正10年1月1日。

 

栃木宿(栃木市)の近江商人(参考)

 足利藩の陣屋があった日光例幣使街道栃木宿は、巴波川舟運の集積地として栄えた。近江国守山の商人 善野喜左衛門が醸造業の釜屋を出店したのが宝暦年間。その子孫は絵師 喜多川歌麿と親交があったという。親族が営む釜屋も増えて栃木宿に釜屋一家が出来た。

 

 

宝珠花河岸の浅間山

西宝珠花河岸の富士塚浅間山)は巨大な塚であり、寄港する船からの参拝者も多くいただろう。

浅間社の鳥居扁額(春日部市指定文化財「宝珠花神社扁額」)は、西宝珠花の信徒が富士登山121回を記念して 天保4年(1833)に奉納したもの。単純に年1回と考えて 正徳2年(1712)、登拝シーズンに2回登っても60年、熱意と財力を感じる。

 

明治になり江戸川右岸の飛地であった西宝珠花は、埼玉県に編入。西宝珠花の浅間社は明治40年(1907)他3社と合祀されて宝珠花神社に改称した。昭和28年(1953)河川改修のため、宝珠花神社と富士塚を現在地に移転。先祖伝来の地を手放す条件のひとつが村の全体的な移動であれば、巨大な富士塚も当然移築。

 

明治期の丸宝講は、扶桑教丸宝本部教院となった。

教院長を務めた村瀬寶(行名 寶行栄山)が 明治27年(1894)に72歳で永眠。翌28年に建てられた丸宝本部の富士講碑には、足利からの寄進も記されていた。

明治28年に建てられてから128年、村の移転も乗り越えた上記富士講碑も、1年ほど前にかたずけられ姿を消している。

富士講碑があった場所は、現在駐車場になっている。   ↓



 

江戸川の上流、西関宿向下河岸の浅間宮

江戸川流頭部にあった川関所、関宿(せきやど)関所では船改めをするため、関所が閉まる夜間は基本通行止め。

川を渡る通行人を取り調べる役人が、江戸川を通る数多くの船荷まで改めることは不可能なので、関宿三河岸の河岸問屋に業務委託をしていた。船主は問屋に手数料を支払って通行手形を書いてもらい、それを関所に提示して通船した。

 

足利~江戸間の川船改めは、関宿関と中川番所の二か所で行われ、明治3年(1870)に廃止されるまで、入り鉄砲出女の取り締まりをしていた。

 

江戸川の開鑿で、宝珠花村と同様に町が東西に分断された関宿。江戸川右岸の飛地になった西関宿向下河岸の富士塚と浅間宮が、明和9年(1772)の絵図に描かれている。

 

浅間宮には、享保20年(1735)に奉納された水盤があり、少なくても290年以上の歴史がある浅間社。船宿の宿泊客にも参拝に行く者がいただろう。

 

          大問屋と呼ばれた関宿河岸の有力者、喜多村家の家紋。  ↑

向下河岸の問屋「喜多藤( 喜多村家)」が奉納した、家紋入りの水盤が境内に現存する。

 

浅間宮に奉納された絵馬に描かれている水屋も喜多村家が奉納したもの。喜多村家は近江商人の子孫であり、水屋や水盤だけではなく富士塚作りにも協力しているのかも知れない。

 

西関宿の話ではないが、古くから「富士山は近江国の土で出来ていて、その跡地が琵琶湖になった」という伝承あり。琵琶湖や近江富士藤原秀郷の大ムカデ退治伝承地)を見聞きしていた近江の商人であれば、富士塚造りにも協力していそう。

西関宿の富士塚に浅間沼があった。これが富士塚由来の沼であれば、出来る過程を富士山と琵琶湖に見立てたか。

 

 

余談

西関宿浅間神社境内社で、文政8年(1825)に向下河岸講中が再建した「水神宮」石祠の正面にある卍紋には、その上に三峰マークが付かないので、神社のシンボルなのだろう。西関宿浅間神社の社殿は明治9年に再建したものなので、上記の絵図の社殿とは似ていない。水害が起こる地域にて浅間宮の水塚を作れば、それはもう富士塚

 

 

宝珠花~足利間には、谷中村の富士講もあった。渡良瀬川遊水地を作るため住民の移転が始まる頃には、谷中村の先達も富士登山どころではなかっただろう。先祖伝来の地を離れるのは大変なことではあるが、数百メートル移動するのと村が消滅するのでは全く違う話し。

 

江戸時代の宇都宮(参考)

天正18年(1590)宇都宮仕置が行われた舞台である宇都宮城。秀吉は会津に行軍した後、宇都宮城から駿府城へ入城し、9月1日京都へ凱旋した。

 

宇都宮城主蒲生氏が、近江国日野の商人や職人を呼びよせて住まわせたところが日野町(現二荒町)。この頃はまだ、上方と坂東で文明の差があったのだろう。

 

長谷川角行の法脈を継いだ二世が暮らしていたのが鉄炮町。続く三世の生誕地が押切町。

南光坊天海が14歳の頃、修行をしていたのが粉河寺。

蒙古軍を追い返す神風を吹かせた宇都宮大明神(総大将が宇都宮氏)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富士山信仰からみた「彦間浅間山」登山

栃木県佐野市下彦間町と足利市名草中町の境界にある彦間浅間山佐野市側の山頂には、赤萬字講の先達 金山清行の講社が明治6年に建てた石祠があり、浅間大神(富士山の神様)を祀っていた。下彦間の浅間社がありますよという山名。

 

佐野市と合併する平成17年(2005.2.28)までは、安蘇郡田沼町大字下彦間だったので「田沼浅間山」と記されていることもある。

 

上毛電気鉄道 富士山下駅群馬県桐生市)のホームでとまどう富士登山客の話しとは違って、東武佐野線田沼駅が最寄り駅であるのは間違いない。田沼駅から9km距離がある彦間浅間山

 

佐野市下彦間町「憩い館」前の中央登り口から、山頂の浅間社までは約1km、30分ほどで登れる。

 

中央登り口(県道208号飛駒足利線沿い)にある、寛文5年(1665)の小松石で作られた庚申塔は、佐野市指定文化財になっている貴重なもの。

 


全く関係ないことだが、1665年に描かれた フェルメール真珠の耳飾りの少女」作品として少女と猿は同じ歳。

 

現在の神奈川県足柄下郡真鶴町より、江戸の石問屋が仕入れて、海運・舟運(江戸川・渡良瀬川・旗川・彦間川)で佐野まで運ばれてきたのだろう作られてから359年、真鶴の小松石が銘石と呼ばれるのにも納得。

 

箱根の火山から流れ出た溶岩が、海に流れて冷え固まった石。40万年前の溶岩。

 

足利市渡良瀬川の「せせら」 企画展掲示渡良瀬川改修 完成を記念した絵図(複製)

 

 

 

 

中央登り口

登り口の巨大な庚申塔は、寛政12庚申年(1800)に建てられたもので、側面に大網当地出現石と記されている。佐野市閑馬町大字大網は彦間川沿いで距離も近いが、運ぶのは大変そう。

 

登山道には、庚申塔が多く見られる。無量寺の境内を削って県道208号が作られたそうなので、須花峠の庚申塔がここに集められているのだろう。足利市側にも129基が集まる「須花の庚申塔群」がある。

 

 

登り口からすぐ庚伸山の阿弥陀堂無量寺の本尊であった阿弥陀如来像や、薬師如来像などが祀られている。お堂の脇に井戸あり。

 

 

9コースが用意されている極楽往生にて、最上級コースで迎えに来てくれる阿弥陀様(上品上生)

 

素朴な造りの薬師様

 

 

死後には山に行き、33年経つと山の神になるという考えのほか、西方極楽浄土に住まう阿弥陀如来が来迎して極楽浄土往生するという考えがあった。無量寺は死後に行く山であり、極楽浄土へのゲートだったのだろう。

 

 

富士山信仰では、阿弥陀様と薬師様と大日様の三尊が「富士曼陀羅図」に描かれたり、山頂の薬師ケ岳(現在は読み替えて久須志岳)で祀る薬師如来をさす裏薬師という表現や、富士山で見る御来迎(ブロッケン現象)など、明治になり仏教色が一掃されるまで、富士山の主要な仏様であった。

彦間浅間山の中腹にある不動明王像を大日如来とみなす人もいたかも知れない。

 

 

鐘撞堂の鐘は平成5年に寄進されたもの。昭和20年に供出された無量寺の鐘は、延享3年(1746)天明鋳物師の作。『田沼町史第四巻』に、延享元年の古文書(鐘撞堂建立の議定書)が記されている。

 

軽く引いて、手を離すと良い鐘の音が広がる。

 

 

海抜200mの辺りまでが庚伸山か。この先はアップダウンしながら登って行く。

 

落葉で滑りやすい場所には手摺やトラロープが設置されているので、その区間だけでもグローブ推奨。

 

 

 

子育観音像

平成坂を登り切った先にある子育観音は、寛政元年(1789)に麓の高野谷戸・竹ノ沢などが奉納したもの。

 

観音様が胸に抱く子供は手を組んでいて、おにぎりを持っているようにも見えてくる。

 

 

不動展望台

展望台から見える日光男体山は、日光富士という佇まい。

 

 

展望台の不動明王と、奉納されていた木剣。

 

壊れやすい石燈篭の火袋だけが残されている。

 

迦楼羅炎の目やくちばしは見当たらない。

 

安政7年(万延元年1860)60年に一度の庚申年に「小坂矢ノ沢講中」が奉納した不動明王。中央にある(矢と沢)の間にある赤い点が小さなノ。

 

 

小坂の話

県道208号の南にあった山城、須花城の別称は小坂城。矢の沢から須花城跡南面の峠を抜けた先にあるのが足利市名草下町大坂。歩きであれば現在も通り抜けられる峠道には、三猿が刻まれた石祠や石仏などがある。

 

 

正月元旦の出陣 (戦国時代)

足利長尾顕長の兄が、上州太田金山城の由良家。

佐野家当主宗綱の弟が、上州桐生佐野家である桐生城主。

実質的に、由良兄弟と佐野兄弟で争っていた。

 

佐野家の客将である小野家は、山間部で佐野と桐生をつなぐ要衝の飛駒を守っていたが、長尾顕長に攻め落とされてしまった。腹を立てた佐野宗綱が天正14年(1586)正月元日に出陣し、現在の佐野市下彦間(須花坂)にて、討ち取られてしまう。佐野家の家臣は元日の出陣を嫌がったという。

宗綱の死後、佐野家は小田原北条家から養子を取ったため、当主を討ち取った長尾家も佐野家には手が出せなかった。

 

飛駒を守っていた小野家兄弟

小野家当主である兄は飛駒根古屋の小野城主。城主の弟は成龍院という号であったので、下彦間の鎮守 慈眼大明神別当(現宇都宮神社)本山修験成龍院小野家の祖か。修験者の家系などは血が続かなくとも、弟子や幸手不動院(埼玉県春日部市小淵にあった本山修験)から紹介される養嗣子があるだろう。

小野城主の死後、城主の息子は京都聖護院にて本山修験となり根本山神の先達となった、これが後の飛駒山大学院。

成龍院が手引きしたと考えれば、本山修験になったのも理解できる。滅亡した桐生佐野家の旧臣が安蘇郡入飛駒村の根本山神別当 本山修験大正院になっているので、口添えも得られただろう。

 

金山清行は幼少期に、飛駒山大学院の筆子(寺子屋の生徒)として、時の法印に学んでいる大学院は明治の修験禁止まで続き、根本山神社となった。飛駒の神職小野家は半世紀前に断絶し、小野家跡地は根古屋森林公園の管理事務所になっている。

 

 

飛駒浅間山

 

江戸時代、仙元大菩薩も富士山の神仏(仙元大日神)

小野城があった飛駒町の要谷山には、山中の巨大な岩に仙元宮(浅間社)があり、浅間山とも呼ばれている。

 

この山に赤萬字講の先達 金山清行が籠り堂を建て修行をしたという。山城の郭を利用して、平地にお堂を建てたのだろう。

 

 

不動明王像「小坂矢ノ沢講中」から、話が大きくそれてしまったが、下彦間は争いの最前線であり、小坂も須花坂も騎馬武者が走っていた峠道だったという話し。

 

 

 

それっぽい岩

不動展望台から先は、岩場が出てくる。

岩が多くなってくると、ちょっと富士山ぽい。

赤萬字講の講員から「亀岩」だの「獅子岩」だのと呼ばれていそうな岩も見られる。富士登山では巨大な岩も登拝ポイント。

 

 

わからない石祠

山頂の手前、南面の谷に向かって石祠と石灯篭が建っている、この急な谷を登ってくる参道があったのか。

 

建っている灯篭の竿石には「願主 当所・・・」と記されているが、下部は枯れ葉に埋もれて見えなかった。

斜面には台石がひっくり返っているので、対の灯篭が谷に落ちているのかも。

 

 

 

少し登ると頂上の浅間社が見えてくる。

 

水盤は明治7年(1874)6月吉日。浅間社は明治6年3月吉日の奉納であり、祠の額は浅間大神

 

富士山が良く見える場所なのに祠は南に向いて建ち、水盤と石祠の間を登山道が通っているので、登山道整備時に移動させたのかも知れない。

 

 

気象条件が良ければ富士山が良く見える。

 

 

携帯電波良好の山なので、靄がかかっているときにも山名表示アプリや富士山コンパスアプリで富士山の場所が確認できる。(富士山コンパスによると、約84㎞先に富士山)

 

浅間社 向背柱越しの富士山。

 

 

曇っていて見えない時には、祠の前に立ち、水盤の左端の延長線上に体を向けて「山中湖 富士山ライブカメラ」と検索すれば、雲の向こう側にあるリアルタイムの富士山が見られるかも知れない。

 

 

金山清行は、明治8年(1875)扶桑教会の教導職補事務員となり、清行という行名を使わなくなるので、赤萬字講からも離れているのかと思う。

 

明治7年奉納の水盤は、下彦間の赤萬字講最後の奉納物になったのかも知れない。清行は群馬県邑楽郡渡瀬村大字傍示塚村の赤萬字講大先達 荒井仰行の門人であり、赤萬字講自体は「扶桑教赤萬字本部教院」として、明治・大正時代になっても、二世・三世の荒井仰行に引き継がれている。

 

 

足利市名草中町の石尊山には、大願成就(富士登山33度)を果たして大先達になった赤萬字講  二代目荒井仰行が、明治6年11月に建てた石祠がある。台石正面には、先達 金山清行の名が記されている。

彦間浅間山の石祠の8か月後に奉納されたもの。

 

石尊山の石祠は、北猿田河岸の石工 高瀬喜三郎が作ったもの。

石=河岸の関係が見られる例のひとつ。

 

 

足利で盛んだった大山講、御岳講・男体講・根本山神。気に掛けるポイントは何でも良い。関係があるかと考えて登山をしていると、登山タイムは伸び写真は増えてしまう。健康登山がしたい人は、それなりの靴を履いてサクッと登ってしまうのが吉。

 

 

 

気が付いたことは、その場で書き残さないと、写真を見返しても読み取れないことがある。有形物は風化もするし片付けられてしまう場合あり。

 

 

 

 

 

 

彦間浅間山から遠望

 

 

 

 

 

ps. 桐生城を落とし桐生佐野家を滅亡させたのは由良兄弟の父。入城して桐生城主となった。桐生城主であった佐野家弟は飛駒経由で佐野に逃げ帰っている。

 

 60年に一度の庚申年は、富士山の御縁年として富士登拝者が増加した。彦間浅間山の中央登り口の庚申塔(1800)や、不動展望台の不動明王(1860)の奉納された年にも、登拝シーズンの富士山は賑わった。