足利市松田町 二つの仙元宮の話
事前調査 1
明治十八年『足利郡松田村 地誌編輯取調書』に記載される「松田村神社明細表」に、浅間神社 位置 村ノ卯方 字中手 祭神 木花咲夜姫命 社地 東西三間 南北三間 社殿 縦壱尺三寸 横壱尺壱寸 社格 末社 方位 坤向 祭日 陰暦三月十八日 氏子 七拾戸 とある。
松田村の中央にある字中手の東方、九坪(18畳)の神域に、縦49㎝ 横33㎝の小祠が南西(ひつじさる)を向いて建つ。氏子70戸。同神社明細表の松田神社(村社)は氏子312戸。
事前調査 2
平成10年(1998)立生大学考古学研究室による足利市松田町の石造物調査が行われ、足利市文化財調査報告書 第4集『足利の石造物』(2008)に纏められている。P66に仙元宮の記載あり。番号206 松田町字松山 高53 幅22 厚49 右面「同行 樋口鉄治郎」正面「仙元宮」左面「文久三年十一月日 光山林行」
P12の石祠編年図に、松田町206の正面図があり、流造り屋根の正面に仙元宮と刻まれているのが見て取れる。
江戸末期、行名を持たない個人(上野国新田郡下濱田の先達 光山林行の同行)が建てた石祠。樋口姓は松田の北部に多く見られる。
現地調査 1
松田町字中手の東方を調査。松田川の支流、中手川沿いの空き地に石祠あり。
神社明細表に記載の社殿寸法(約49✖️33)に対して、見つけた石祠は(約55✖️31)と高さに違いがあるので、色合いの違う室部は後補か。
ひつじさるの方角に向かって建つのは鬼門除けを連想する。
台石の右面「先達 照山松行」 正面「社中」 左面「明治十四年巳三月日」屋根の額に「仙元宮」室部の左右に菖蒲が彫られている。

富士山の山開き前には、野花菖蒲でも咲いたのだろうか。

松田の仙元宮とは関係のない話だが、富士山と菖蒲で連想するのは、忍野八海の菖蒲池。菖蒲池の菖蒲を体に巻くと病気が治ったと言う。

屋根には二つの丸万字

2025年6月、雑草に埋もれた石祠。すぐ近くに立っても道からは見えない。
雑草を踏み倒したところ、祠の下にサワガニがいた。隣に川が流れているので水垢離には便利な立地。


この仙元宮が建てられたのが1881年。『足利郡松田村地誌編輯取調書』(1885)の調査時期と建立年に齟齬はなく、記載された字中手の浅間神社だろう。

『足利の石造物』を見直してみると、P66に記載の番号233 松田町字中手の石祠に該当する。右面「先/山松」 達や照の文字が摩滅していて、永年の草払いを感じさせる。行の文字は見えなかったか。正面の「仙元宮」と「社中」の記載がない。左面は正しいが、明治14年を1882としているのは誤り。
どこにでもあった「疱瘡神(天然痘除け)」が、昭和30年(1955)日本での天然痘根絶により忘れ去られて行くように、どこにでもあった富士講がなくなって、雑草に埋もれた石祠も忘れ去られて行く。

最寄りのバス停は「中手橋」
現地調査 2
松田町字松山に暮らす古老からお話を聞く。仙元宮・センゲン様・センゲン山と尋ねても、いずれも聞いたことがないという。
字松山に仙元宮の建立者と同じ樋口姓の家がない。
建立から18年後、字中手に先達の社中が仙元宮を建てる。
石祠から富士山が遠望できたり、字中手の仙元宮と上・下浅間や、奥宮・里宮のような関係になっていなければ、忘れ去られるのは早かったか。

『足利の石造物』にある、松田町字松山の石造物十点中八点を確認。
正面の祠の左に石祠二基あり。

道沿いにある庚申塔三基と石仏三体。

仙元宮を含む石祠二基の場所が分からなかった。
字松山の最寄りバス停は「天王様前」

先達 照山松行とは
群馬県太田市の金山浅間神社境内にある、大先達 光山林行の富士登山 六十六度大願成就碑(明治20年)の台石に、照山松行の名が記されている。



山梨県富士吉田市上吉田の御師 毘沙門屋に板マネキを奉納。光山林行や教行講社は、神道富士教会に所属するので、照山松行が建てた仙元宮の祭神はコノハナサクヤヒメでOK。
これが扶桑教の場合は話がちょっと複雑になり、明治15年に神道扶桑教を創設する宍野 半が執筆した『富士信導記』(明治10年)では、富士山の神様を天御中主神=天祖天神(天照御大神やコノハナサクヤヒメなどの祖神)とする。
富士山の神様は天御中主神なのだけれども、コノハナサクヤヒメを信仰するのは大丈夫ですよみたいな話。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/816036/1/17
足利市名草下町には「扶桑教大神」という額の石祠もあるので、扶桑教大神=天御中主神なのだろう。浸透しなかったのか明治期の地誌取調書をみると、足利の各地にある浅間神社の祭神は全てコノハナサクヤヒメノミコトになっている。
三和村大字松田について
大先達 園山教行の住む山田郡吉澤村は明治22年4月1日、太田町の一部・周辺7ヶ村と合併して毛里田村大字吉澤となる。同年同日、足利郡松田村は、粟谷村・板倉村と合併して三和村大字松田になっている。毘沙門屋の板マネキに毛里田村とあるのは、明治22年4月以降の奉納。
照山松行は三和村とはせずに松田村としている。粟谷や板倉でも他の富士講が活動している中で、松田を強調したものか。

三和村大字粟谷には、鎮護山 正蓮寺の山中に上・下浅間神社があった。大字板倉の冨士嶽神社には丸登講の石祠が建つ。
余談
富士山の神とされるコノハナサクヤヒメは、富士山信仰とは関係のない安産の神様としても祀られている。足利市板倉町前山には、江戸中期 安永年間(1772〜1781)勧請の産泰神社があり、祭神は木花咲耶姫命・大山祇命・大山咋命。

前橋の産泰神社まで行かずとも、お札が授かれるようだ。
全国各地にある産泰神社の総本社である「前橋の」という意味であり、総本社のお札を足利市板倉町の産泰神社で授かれるというという意味ではない。
北関東連続幼女誘拐殺人事件の発端から45年目の花火大会
今年の第108回足利花火大会は、令和6年8月3日(土)開催
昭和54年(1979)8月3日の午後、足利市通5丁目(八雲神社の隣)に住んでいた福島さんの娘 万弥ちゃん5歳が行方不明になり、同月9日 渡良瀬川河川敷の藪の中で遺体となり発見された。

事件当日に八雲神社の境内で、若い男性と居たという複数の目撃証言がある。また、同境内にて同年代の子供と遊んでいる姿が目撃されている。
通4丁目の 憩いの広場(児童公園)にて、同年代の男の子と一緒に遊んでいる姿が目撃される。その後、近くにある中華食堂の前を、男の子と手をつないで渡良瀬川方面に通り過ぎてゆくのを、食堂従業員が目撃している。この従業員は万弥ちゃんと面識があり、見間違えることはないと証言している。









男浅間山の登山道入り口 この先、七曲りのつづら折りを登って行く。

登山道を登って行くと廃屋が見えてくる。昭和54年の事件当時に、この家で暮らしていた50代女性の証言が最後の目撃情報となる。

足利市田中町 男浅間山の登山道にて、5歳くらいの男の子と女の子が山に登って行く後姿が目撃されている。
この女児が万弥ちゃんである確証は得られないが、状況から見て万弥ちゃんの可能性も高いとされた。



なぜ5歳児が男浅間山に登るのか
行方不明となった8月3日の翌日が足利の花火大会開催日。昭和40年代から使われていた足利花火大会のキャッチコピーは「30万人の夕涼み」であり、事件当時の足利市総人口が16.4万人くらい。県外からも多くの見物客が集まる前日に起きた事件であった。
事件当日、万弥ちゃんと一緒に遊んでいた同年代の男の子は誰なのか不明であり、目撃者達も「見たことのない子」と証言している。八雲神社で一緒にいる姿を目撃されている若い男性についても、分からず仕舞いであった。
若い男性が幼児を男浅間山に誘い出す方法を考えてみたとき、「明日の花火が良く見える場所を教えてあげる」や「クワガタが捕れる場所を教えてあげる」などを思いつくが真相はわからない。
当時の足利花火大会は、現在よりも渡良瀬川の上流で行われており、男浅間山の中腹からでも良く見えただろう。


男児の今現在は?
事件から45年がたち、男児が当時5歳であれば現在は50歳。女児と一緒に男浅間山に登った記憶も残っているかどうかといった感じだろうか。うっすら記憶していても思い出すことはないのかもしれない。
5家族による家族会結成から13年
北関東連続幼女誘拐殺人事件にて唯一時効となっていないのは、平成8年(1996)横山ゆかりちゃん4歳の誘拐事件のみ。被害者5家族は平成23年(2011)6月に家族会を立ち上げ、同一犯人によって引き起こされた事件として捜査をするように求めた。それから13年が経つが進展はない。
「真犯人がわかっているのに捕まらない」とは
冤罪事件として有名な「足利事件」は、警察のDNA鑑定によって無実であることが証明された。その後、真犯人と目された通称「ルパン似の男」も警察のDNA鑑定によって無実が証明されている。
ただし、警察とは別に行われたDNA鑑定では、幼女誘拐殺人事件の犯人とルパン似の男のDNAが一致したという。当然、警察の判断はルパン似の男=無実。警察とDNA鑑定者のシガラミもあり、犯人とルパン似の男のDNAが一致したという鑑定を警察が考慮することはないので、犯人が名乗り出ない限り事件が解決することはないと思う。
この辺りの経緯は『殺人犯はそこにいる』(2013)など、この事件を取り上げた書籍を参照。
誘拐殺人事件は未解決のままなので油断をしないようにという話しであり、事件発生から45年目の8月3日が、足利の花火大会という意味では鎮魂になれば良いなという話し。
足利市で起きた連続幼女誘拐殺人事件と冤罪事件。事件を風化させないことで再発を防げないものか。
余談
昭和54年8月3日(金)のテレビ番組
16時~
⑧ ひらけ!ポンキッキ(再)
⑩ とびだせ!ピンポンパン
⑩ 一休さん(再)
⑧ ゲゲゲの鬼太郎「死神」(再)
17時~
⑩ キャンディキャンディ(再)
⑩ 宇宙海賊キャプテンハーロック(再)
20時~22時50分
*「獄門島」を視聴する人の分、この時間に外出する人は減少。
8月4日(土)の足利花火大会は小雨が降る中での開催となった。観客は減少したかも。
余談

鉄道の延長工事で北口参道は消失し、男浅間神社は荒廃したと聞く。
男浅間山の東から登る傾斜の緩いつづら折りの登山道が作られ、6月1日のペタンコ祭りも参拝しやすくなった。

下野国の根本山信仰と富士山信仰(五年ぶりの林道作原沢入線の全線開通を記念して)
2024年4月22日に、5年ぶりの全線開通となった林道作原沢入線。
ゴールデンウイークが始まる27日、栃木県佐野市作原町から群馬県みどり市東町まで行き、群馬県側の作原沢入線起点(蚕影神社前)でUターンして、群馬県側の作原沢入線終点(佐野市作原町の宝生峠)から根本山登山をしてきた。



蚕影神社前にある、群馬県側の起点標識。

宝生峠の空地は、虎ロープで封鎖されていた。
ここから、左手へ登って行く。

地図で確認すると、富士登山っぽく感じる。

江戸時代の根本山神は、下野国彦根藩領飛駒村の大學院と、同じく彦根藩領入飛駒の大正院という2つの里宮があった。宝生峠から入山すると、大學院の本社である根本山神宮が建っていた十二山根本山神社に近い。

宝生峠からの登山道は、十二山の分岐点で佐野市飛駒町黒沢からの根本山道(上記の図では熊鷹山からの登山道)と合流するので、江戸時代の道標「二丁目 野州足利新中町 安田孝助」や「壹丁目」を見ることが出来る。一丁は109mほど。

足利市通2丁目の旧家。

本山修験の大正院と大學院
佐野市飛駒町黒沢からの根本山道には野州足利新中町の人達が奉納した道標がいくつか現存している。
足利町は、裏町(現在の足利市栄町)にあった大正院(入飛駒の根本山神別当 大正院の足利別院)の霞であり、大正院の「長日護摩供講中」である足利町の人達が、十二山の(大學院の)道標を建てていることは大変興味深い。
明治初期に政府から出された「神仏判然令」や「修験宗廃止令」によって、大正院と大學院は修験をやめ神職となり根本山神社になった。それ以降、修験の院号は使われない。
十二山根本山神社

「十二山」とは、根本山神の本地仏である薬師如来と、薬師如来を守護する十二神将が祀られていた山であることから付けられた山名。群馬県に多い他の十二山とは違い、薬師如来の守護神を由来としている。(←十二山神社にある石碑には、そんな意味合いの事が記載されているが、個人的には薬師仏の誓願である「十二の大願」から来る山名ではないかと考える。)
山の名前というと山頂を連想すると思うが、根本山神社の周辺一帯を指す。江戸時代、ここに大學院の講中が建てた、総欅造の根本山神宮本殿と木造拝殿が建っていたが、明治期に火災で焼失したため、社殿も十二神将も現存しない。

大正院が発行した根本山絵図では、本地仏である薬師如来から「薬師ガタケ」と記載され、根本山の山蔭にある大學院の本社については触れられていない。

数種類ある絵図の中には、「飛駒口拝所」として大學院の根本山神宮(現十二山根本山神社)を示しているものがある。
十二山は丁半博打の賭場として賑わったそうで、丁半が開催される時は、寺銭を得ていたという。
領主が桜田門外で暗殺され、彦根藩祈祷所を謳っていた根本山信仰は廃れるが、十二山には明治29年から昭和2年まで祀職の人が住んでいて、倒壊した建物跡が残っている。

篆書の「根本山」がお洒落に感じる水盤。
渡良瀬川舟運で栄えた越名河岸中や越名御船中。馬門河岸で栄えた馬門の人達の名が刻まれているが、裏面は苔が覆っていて読み取れない。そんな時でも、事前に調べておくと確認作業がはかどる。

水盤には「飛駒山大覚院」と記され、1文字間違いあり。
大學院であるところが覚になっていることからの妄想。
「(學) ガクを彫るのが大変なら、ツでもいいですよ」
「(覺) ツで良いのであれば、それでやらせてもらいます」

天明鋳物がある佐野に霞を持つ大學院ならではの、鉄燈篭の台座と奉納された斧。

佐野市飛駒町の根本山神社(旧大學院)で配札されていたお札。
入飛駒の根本山神社(旧大正院)が建っていた場所は、桐生川ダムの建設によって梅田湖になってしまったが、神社は群馬県桐生市梅田町1丁目に移築され現存している。そちらの根本山神社では、現在でも群馬県利根郡片品村東小川下小川地区にある根本山神社の氏子へ配札が続いているという。

十二山の神社では桜が見られた。
大正院の御本社へ
十二山神社から根本山に行き、北側のコースへ進み籠り堂跡へと下る。人があまり通らないようだが、登り返す必要がなく下るだけなので、道迷いに慎重な人には良いルート。

籠り堂跡にある、表坂の鉄梯子。


土石流により表坂から100m流されて土砂に埋没していたのを、近年発見して掘りだしたという。江戸時代に桐生領主や野州足利郡南猿田村の山田房五良などらによって奉納された梯子。

裏坂に掛けられている現役の鉄梯子は、天保十二年(1841)八月六日、桐生講中・足利講中・八十宿講中による奉納。沢水が掛かる場所にあるが、180年経った今でも、しっかりしていてグラつかない。

表坂の鉄梯子とは、留め具の向きが違う造り。
根本山神社本社

大正院の御本社には何もないと、桐生市梅田町の根本山神社の神職から聞いていたが、彫刻だけでも一見の価値はありそう。現在は虎ロープで規制され、立ち入り禁止になっている。
根本山は2023年も3名の死者を出している危険な山。無理をしてまで見る社殿ではないし、小さな子供を連れてくるような山でもない。


「下野の黒幣(根本山の天狗)」が、火災にあった江戸の彦根藩邸で人命救助をした逸話がある。このような話を勝手に流布して許されるとは思えないので、何かしらの形で災害支援をしているのだろう。


御本社から鎖場を登り、宙に張り出している獅子岩山神へ。獅子岩の名称は富士講をしている人に刺さったかも。

獅子岩からの景色は良い。

先に進むと、根元に巻き付けられている江戸時代の大きな鎖。根がちぎれた倒木であっても、しばらくは大丈夫か。

十二ノ鳥屋

アミバ(鳥屋場)から中尾根十字路へと向かう。
江戸時代には、ここで捕獲したツグミを焼き鳥などにして食べていたのだろうが、昭和22年(1947)カスミ網による野鳥捕獲が禁止される。ツグミも保護鳥に指定され、食べるために捕まえることは出来なくなった。

中尾根十字路から、十二山神社まで0.8km。
根本山を巻いて進む根本古道へ。

根本山のピークを通らないルートである根本古道は、人があまり通らないようなので、滑落しないように注意して歩く。修験道の霊場であり修行の道場であったことを考えれば、古道が危険なのは当然なのかも。

十二山に出て、入山してきた方向に進み、分岐から作原沢入林道・宝生山方面へ。
今回は行かなかった熊鷹山は、江戸時代より安蘇富士山の別称がある山。熊鷹山の沢水が川になって流れた先にある「不死熊橋」は、安蘇冨士山熊嶽山神の読み替え。

熊鷹山では、マンガン鉱を採掘する「十二八洲鉱山」が操業していたので、狭い坑道内で作業する人達が不死の熊と読み替えても不思議はない。採掘したマンガン鉱は不死熊橋を通ってトラックで桐生に運ばれていた。
木材やマンガンを運ぶために整備した林道が、現在は根本山の登山道として利用されている。
江戸時代より、富士山の神は下野(室八島)から来たという話しがあったので、鉱山名の八洲(ヤシマ)も、室八島(室八洲とも書いた)と富士山の神に掛けられたものかも知れない。
富士山の神と室八島の話は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」元禄二年(1689)にも出てくる有名なエピソード。

熊鷹山には「安蘇冨士山熊嶽山神」の石祠が祀られている。(倒れそうで倒れない木製の鳥居が目印)

額は「山神 熊嶽 」「 冨士山 安蘇」
山名と言えば山頂を… 安蘇冨士山の熊嶽山神。


信者が毎年、祠の前で魚を焼いて食べている。山火事にそなえて、かまど周辺の枯れ葉を片付けてから焼いているのだろう。ちなみに、焼いている魚はコノシロではない。
「山中で直火調理など言語道断」と思われる方も居るだろうが、継続されてきた年に一度の祭事。
安蘇富士山の北に、薬師ヶ岳・十二山(薬師如来と十二神将を祀る山)があるのは、富士講の人にとっても良い霊場に感じるポイントだったのかも知れない。
足利市にある足利富士山(田中町)のような低山でも、霧雲の雲海が見られる時がある。根本山に籠る修験者がいた頃は、安蘇富士山でも、山桜が咲く山を渡る早来迎のような雲の流れを見られる日があったことだろう。

飛駒村と彦間村

時代により変化しているので「飛駒村」で統一したが、絵図や文献には彦間村の表記も多く見られる。彦根藩主の井伊直弼が領内視察に訪れて、大學院で昼食を取った頃は上彦間村。
余談
林道作原沢入線を往復して、この日にすれ違った車両は、車19台・バイク4台・自転車3台であった。
五年ぶりの全線開通から5日目では、ゴールデンウイークであっても妥当なところか。

以前と同様に、路面に落石や木の枝などが落ちているので、特にバイクは注意した方がよいかも。
県境付近の車道を、2kmくらい歩いてみたが、針金のようなものが多数・錆びた釘が二本ほど車道に落ちていた。こんな山中でパンクするのは嫌すぎる。
人穴富士講遺跡の丸宝講供養碑と足利の墓碑
丸宝講と足利
岩科小一郎著『富士講の歴史-江戸庶民の山岳信仰』p241に、丸宝講の最古先達 藤左衛門 寛政3没とあり、丸宝講の分布として(千葉)宝珠花、木間ヶ瀬、東魚沼、下吉羽 (栃木)足利と記載されている。
静岡県富士宮市にある人穴富士講遺跡に、下州江戸川通宝珠花町の古久保氏が建てた寛政3年没(1791)藤左衛門の供養碑があり、その隣に下野足利町小沼氏の供養碑があるので、これが上記の本にある栃木足利の情報源かと思われる。
小沼氏の供養碑と墓碑
人穴の供養碑正面は女性を右側に「淨徃院楊譽貞心大姉 晴乗院了譽即法居士」
右面「寛政七卯年六月六日 下野足利町小沼氏」
左面「寛政七卯年六月六日」とあり、足利町の薬種商小松屋小沼氏を連想する。男女両名が同年月日に亡くなっているので、墓碑さえ残っていれば見つけるのは簡単。
足利市巴町の浄土宗法玄寺にある墓碑の正面には女性を右側にして「淨徃院楊譽貞心大姉 了譽照光喜法居士」
右面「寛政七卯年六月六日 小沼仁兵エ富久娘」
左面「寛政七卯年六月六日 小松屋内 喜七」とある。人穴と足利では男性の戒名に違いが見られる。
菩提寺以外で授かった戒名はトラブルになりやすく、付け直しもあると聞くが、江戸時代はどうであったのだろう。
すでにある戒名に後から院号を求めた場合にも、付け直しになるか。

人穴富士講遺跡を管理していた赤池家には、丸宝講から水死人や若い女性の供養依頼があり、その代金や地代金を受け取った記録が残されている。講社から依頼があれば女子供でも供養碑が建つ以上、小松屋内喜七が丸宝講の先達かどうかは不明。
丸宝講が人穴に供養碑を建てる基準は、先達がどうこうというよりも、せめて極楽浄土では幸せになってほしいと願うような死因を持つ人達という印象を受ける。宝珠花河岸の有力者である宝珠花御三家が浄土宗の信徒であったことも影響しているか。
仁兵衛富久の辞世

富久は寛政7年より前にも、院号・譽号を授かる二人の娘を亡くしている。
寛政7年は富久47歳、弥陀の浄土に徃く娘は20代で喜七は後継者候補か。二人の命日は六月六日、富士山の山開きと時期が重なるのは気になるところ。
先に亡くした娘二人の追善供養碑が人穴に無い。喜七の戒名が異なる。下野足利町小沼氏という表現。人穴に供養碑を建てたのは小沼家ではないのかも知れない。
余談
足利市大月町西耕地にある仙元宮には、冨士一山教会講社のマネキがある。奉納したのは下野国足利郡田中村の田部井孝行であり、元大先達として澁澤徳行、山田第行、正田正行と記載され、マネキを見た人にも足利郡田中村の講社(丸万字講)の師弟関係がわかるようになっている。
人穴富士講遺跡には、山田第行など門人らで建てた澁澤徳行の供養塔がある。極楽浄土に生まれ変わることを願った追善供養というよりも、長谷川角行が眠る地に建てられた顕彰碑という感じ。当然ながら講社によって人穴に碑塔を建てる目的は変わってくる。
山田第行は、人穴の供養碑では㐧行、足利のマネキでは弟行と記されている。
足利の法玄寺には有名な書家のお墓もあり、墓碑の書体が特徴的。

墓碑の白い靄はカメラマンの服が反射したもの、レフ板代わりの服を脱ぐべきであった事例。
丸万字講 正田正行の富士登山三十三度碑に見る講中・支援者

栃木県足利市田中町の女浅間神社にある、丸万字講の先達 正田正行の富士登山三十三度碑が建てられたのは嘉永元年(1848)四月。
翌嘉永二年四月に 正田正行の大願成就碑が建てられ、喜びが北口に表される。
足利市指定文化財「回漕問屋忠兵衛の石燈篭」と同じ、北猿田河岸の石工 高瀬鹿蔵の作であるが、表面の剥離がひどいため年々読めなくなっている。四字熟語である〇運長久の頭は読めないので、国でも家でも武でもOK

どちらの石碑も四月に建てられたもの。初山(富士山の山開き)は六月なので、登山三十三度達成が1847年、大願成就により大先達になったのは1848年だろうか。
全く関係ないが、葛飾北斎の没年が嘉永二年四月。日本映画『HOKUSAI』では、決して動かない北極星にちなんで画号を北斎にしたというシーンがある。また川柳では「卍」という柳号を使った北斎。正田正行が大先達になったのは、そんな「画狂老人卍」が数え90で亡くなる頃の話し。
三十三度碑に見る講中・支援者
足利町には足利学校があり、学力向上によって町が発展したのかと想像していた。実際は近江商人や新潟、東北から移り住んできた人によって形成された町なのだという。
(参考)
足利買場・67 日間の航海を終えて
足利新田町の先達 正田正行の三十三度碑に見る、近江屋・日野屋・釜屋などの屋号は近江商人を連想する。買次や醸造業で活躍していそう。

中町 近江屋久兵エ

日野屋新助

中町 釜屋重兵エ
買次商 釜屋重兵エ
天保八年(1837)十二月の足利新田町を、明治期に書き写した古絵図に、新田中町(通称新中町)の「釜屋重兵エ居宅買場」が記載されている。釜屋は足利買場(織物市場)の買次商だとわかる。

正田正行の三十三度碑や上記古絵図の他、佐野市飛駒町には根本山神の道標「一り十一丁目 野州足利新中町 釜屋重兵ェ」が現存する。黒沢西川に沿って根本山道を登って行く山の中にあり、現在は倒木や土砂崩れが多い危険な古道。

写真の西川左岸はコンクリートで整備されているが、その上の道は土砂に埋まっている。戦後もこの道は、マンガン鉱山の労働者が歩いて職場まで行く通勤路であった。
掘り出したマンガン鉱は索道(スキー場のロープリフトのようなもの)で、西川下流の花木まで運び、小型トラックに乗せて足利に運んでいた。閉山後に花木は無くなり地図にも地名が記載されなくなったが、当時は飛駒村黒澤の花木集落が、飛駒足利線の起点であった。

足利市通二丁目の通称井草通りで、県道67号に当たるところが県道208号飛駒足利線の終点。
釜屋がいつまであったのかは不明だが、重兵エが道標を建てた根本山道から飛駒足利線が始まって、釜屋重兵エ居宅買場があった近くに終点があるというのは面白いと感じる。重兵エが歩いた根本山への参詣路とかぶる道筋もあるかもしれない。
三十三度碑に見る甲州屋

正田正行の三十三度碑にある甲州屋文七と甲州屋長蔵。差別化なのだろうか、屋号にこだわりを感じる。
正田正行の三十三度碑と大願成就碑に見る「小沼仁兵衛」の話し。

三十三度碑 中町 同(小沼)仁兵エ

大願成就碑 中町 小沼仁兵衛
小沼仁兵衛は、新中町で薬種商「小松屋」を営む店主の襲名。江戸時代は、小松屋仁兵衛とも称していた。上記の者は仁兵衛高徳。

明治期の小沼仁兵衛 富士山・太陽・たなびく雲からの帆先・跳ねる波と岩礁・女子供の目線・女児の髪・指先・袖の紋に至るまで「胃活」に視線誘導するこだわり。

明治期の小沼仁兵衛 店の前が現在の県道67号桐生岩舟線(通称中央通り) 旧50号という人もいる。 N↓
N↑
現在でも小松屋・仁兵衛の名を見られるのが足利のすごいところ。鎌倉時代建立の鑁阿寺が残っているのはさらにすごいこと。足利東映プラザ劇場は無くなったが、釜飯がおいしい銀釜も、この立地で商売が成り立つのがすごい。
人穴に見る下野足利町小沼氏

富士山の西の裾野にある人穴

先代の仁兵衛富久の娘、寛政七年没(1795)の供養碑が、世界遺産富士山の構成資産である「人穴富士講遺跡」に建てられている。
字面だけ拾えば「富久娘」であり、看板娘として活躍しそうだし、縁起も良さそうだが、下野国(足利市通2丁目)の薬種商の娘の供養碑を、駿河国富士郡人穴邑(静岡県富士宮市人穴)に建てる理由があるのだろう。
正田正行の三十三度碑が嘉永元年(1848)、年一回の富士登山として33年を引いても富久の娘の没年には20年足りず、富久の没年から考えても正田正行の講中ということはない。人穴にある丸万字講の石碑は、文政十一年(1828)六月に建てられた武州忍領小針村の大先達 渋澤徳行の供養碑のみであり、仮に富久が徳行の講中だったとしても、先達でもない家族の供養碑を手配してくれるとは思えない。

小沼氏の供養碑は丸宝講の碑塔群にあることから、浄土院大日堂を管理していた赤池家に建立を依頼したのは丸宝講だと思われる。丸宝講では女子供の供養碑も、赤池家を通じて人穴に建てていた。
大先達 渋澤徳行と比較しても、丸宝講の供養碑は全体的に小さい。黄色い数字は記されている戒名の数。赤文字は女性の内訳、その下は男児女児の内訳である。左から4番目・8番目などは女子供だけの供養碑。
赤池家の資料に、丸宝講との記録が残されている。供養碑を一基建てるのに丸宝講が支払った代金の一例では、地代が一両、石碑が三両。
ここにある丸宝講の碑塔には下州(ここでは下総国をさす)と記されているので、仮に下野足利町小沼氏の供養碑が渋澤徳行の近くに建てられていた場合でも、境内を整理するときに丸宝講の碑塔群に紛れ込む可能性が微レ存(微粒子レベルで存在するかも知れない)
西の浄土 人穴

富士山のほぼ真西に位置する人穴。西の裾野を通り抜ける中道往還(甲州街道)沿いにあったので、参詣者の他にも休息に立ち寄る者もいただろう。
人穴浄土門は、阿弥陀仏が住まう西方極楽浄土へのゲートであり、人穴は西の浄土であった。
『富士講唱文独見秘書』には「ふじのすそ野の西口に南無阿弥陀仏の浄土ありぬる」という歌が記載されている。
下野足利町の小沼氏は浄土宗の宗徒(南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで、極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰者)なので、屋号の小松屋も、浄土宗開祖 法然上人の歌にちなんで付けられたのかも知れない。
小松とは「上人が住まう小松谷の空に浮かぶ雲を、枝で支えているかのように見える、樹齢千年はありそうな松」のこと。
人穴の供養碑に記される小沼氏も、院号・譽号がつく戒名であり、お墓は足利の浄土宗法玄寺にある。
人穴碑塔群の情報を、誰から得たのか。
供養碑を建てることを決めたのは誰か。
丸宝講が赤池家に依頼して建てた供養碑と仮定したとき、誰が丸宝講に依頼をしたのかが気にかかる。色々なパターンを考え付くので、勝手に妄想するしかない。
江戸川宝珠花河岸に立ち寄る可能性がある人物は無限。
薬種商であれば、江戸日本橋から薬を仕入れていただろう、飛脚や回漕問屋から情報を仕入れたかも知れない。
合薬を行商する近江商人が店に立ち寄ったり、となり近所に住む釜屋なども情報源になったかも知れない。
伊吹山もぐさを仕入れていた足利の小泉藤蔵や上州桐生の釜屋も気にかかる。
桐生の近江商人 近江屋(矢野家)の古文書に、小松屋仁兵衛の名を見る。
富久の娘が人穴の話を聞けば、供養碑建立を遺言したかも知れない。同じ供養碑にある男性の親族・友人知人が建てたのかも知れない。
武州小針村 澁澤徳行の門人である、野州久保田村の大先達 山田第行から人穴の情報を仕入れたのかも知れない。
etc…
丸宝講と足利。江戸川の河岸場と近江商人の話
丸宝講と足利
江戸初期より江戸川を開鑿。下総国葛飾郡宝珠花村は川で分断され、東西宝珠花村になる。江戸川右岸の西宝珠花河岸は、江戸川舟運の寄港地として栄えた。
浅間社を崇める宝珠花村の人々が、富士登拝のために作った講社が丸宝講。
下総国と武蔵国は川を国境にしていたが、江戸川右岸にある飛地の西宝珠花村は下総国であった。時代を無視して乱暴に言えば丸宝講は千葉県発祥の富士講。
渡良瀬川舟運の最上流である足利の猿田河岸から、年貢米や消費都市江戸へ物資を2日で運んだ船に乗って下れば、西宝珠花は近い。
宝珠花~足利間にある関宿・古河・佐野・館林にも丸宝講はあったので、足利に丸宝講社or講員があってもおかしくないが、実際にあったのかどうかは不明。


群馬県館林市にある丸宝講の富士塚と、明治15年の(富士登山)七十五度御礼碑。江戸時代から登拝していたのだろう、先達の役目であっても75回登るのは大変。
栃木県佐野市伊保内には丸宝講(先達 廣山照行)と丸万字講(先達 岡田廣行)があった。現在の伊保内には、明治になり冨士一山教会の傘下となった丸万字講が建てた「仙元大神」石祠だけが残る。額は「冨士一山」
丸宝講の痕跡としては、伊保内から少し北上した佐野市田島町の坂和神社の境内にある浅間神社にマネキがある。数年前の時点で、社殿の屋根が半分ほど崩落して倒壊しそうな状態であった。
宝珠花御三家
河岸場として栄えた西宝珠花で、宝珠花御三家と呼ばれた有力者に釜屋があり、近江国辻の鋳物師を祖とする近江商人の子孫だという。
近江商人の行商する漆器椀や合薬は有名であったが、釜を背負って行商するわけにはいかないので、鋳物師から廻船業や醸造業に職を替える者がいた。
近江~会津間で行商する人が増えた背景には、藤原秀郷の子孫であり近江日野城主・会津若松城主・下野宇都宮城主を務めた大名「蒲生氏」の絶家があるという。多くの浪人が出たのだろうし、会津や宇都宮を知る者もいただろう。
足利の近江商人(参考)
近江国の日野商人である中森彦兵衛が、下野足利町へ出店して酒造業を始めたのは宝永元年(1704)。成功者がいる町には立ち寄る近江商人も増えただろう。昭和33年(1958)調べの「栃木県清酒製造業従業員名簿」には、足利市の中森酒造株式会社 従業員7名が記載されている。戦後まで続いた酒造会社もなくなってしまった。

明治27年の「足利市中案内双六」より抜粋 通5丁目 酒醸造 何代目かの中森彦兵衛
*足利市ではなく市中。市制施行は大正10年1月1日。
足利藩の陣屋があった日光例幣使街道栃木宿は、巴波川舟運の集積地として栄えた。近江国守山の商人 善野喜左衛門が醸造業の釜屋を出店したのが宝暦年間。その子孫は絵師 喜多川歌麿と親交があったという。親族が営む釜屋も増えて栃木宿に釜屋一家が出来た。
宝珠花河岸の浅間山
西宝珠花河岸の富士塚(浅間山)は巨大な塚であり、寄港する船からの参拝者も多くいただろう。

浅間社の鳥居扁額(春日部市指定文化財「宝珠花神社扁額」)は、西宝珠花の信徒が富士登山121回を記念して 天保4年(1833)に奉納したもの。単純に年1回と考えて 正徳2年(1712)、登拝シーズンに2回登っても60年、熱意と財力を感じる。

明治になり江戸川右岸の飛地であった西宝珠花は、埼玉県に編入。西宝珠花の浅間社は明治40年(1907)他3社と合祀されて宝珠花神社に改称した。昭和28年(1953)河川改修のため、宝珠花神社と富士塚を現在地に移転。先祖伝来の地を手放す条件のひとつが村の全体的な移動であれば、巨大な富士塚も当然移築。

明治期の丸宝講は、扶桑教丸宝本部教院となった。
教院長を務めた村瀬寶(行名 寶行栄山)が 明治27年(1894)に72歳で永眠。翌28年に建てられた丸宝本部の富士講碑には、足利からの寄進も記されていた。
明治28年に建てられてから128年、村の移転も乗り越えた上記富士講碑も、1年ほど前にかたずけられ姿を消している。

富士講碑があった場所は、現在駐車場になっている。 ↓

江戸川の上流、西関宿向下河岸の浅間宮
江戸川流頭部にあった川関所、関宿(せきやど)関所では船改めをするため、関所が閉まる夜間は基本通行止め。

川を渡る通行人を取り調べる役人が、江戸川を通る数多くの船荷まで改めることは不可能なので、関宿三河岸の河岸問屋に業務委託をしていた。船主は問屋に手数料を支払って通行手形を書いてもらい、それを関所に提示して通船した。


足利~江戸間の川船改めは、関宿関と中川番所の二か所で行われ、明治3年(1870)に廃止されるまで、入り鉄砲出女の取り締まりをしていた。
江戸川の開鑿で、宝珠花村と同様に町が東西に分断された関宿。江戸川右岸の飛地になった西関宿向下河岸の富士塚と浅間宮が、明和9年(1772)の絵図に描かれている。

浅間宮には、享保20年(1735)に奉納された水盤があり、少なくても290年以上の歴史がある浅間社。船宿の宿泊客にも参拝に行く者がいただろう。

大問屋と呼ばれた関宿河岸の有力者、喜多村家の家紋。 ↑
向下河岸の問屋「喜多藤( 喜多村家)」が奉納した、家紋入りの水盤が境内に現存する。

浅間宮に奉納された絵馬に描かれている水屋も喜多村家が奉納したもの。喜多村家は近江商人の子孫であり、水屋や水盤だけではなく富士塚作りにも協力しているのかも知れない。
西関宿の話ではないが、古くから「富士山は近江国の土で出来ていて、その跡地が琵琶湖になった」という伝承あり。琵琶湖や近江富士(藤原秀郷の大ムカデ退治伝承地)を見聞きしていた近江の商人であれば、富士塚造りにも協力していそう。

西関宿の富士塚に浅間沼があった。これが富士塚由来の沼であれば、出来る過程を富士山と琵琶湖に見立てたか。
余談
西関宿浅間神社の境内社で、文政8年(1825)に向下河岸講中が再建した「水神宮」石祠の正面にある卍紋には、その上に三峰マークが付かないので、神社のシンボルなのだろう。西関宿浅間神社の社殿は明治9年に再建したものなので、上記の絵図の社殿とは似ていない。水害が起こる地域にて浅間宮の水塚を作れば、それはもう富士塚。
宝珠花~足利間には、谷中村の富士講もあった。渡良瀬川遊水地を作るため住民の移転が始まる頃には、谷中村の先達も富士登山どころではなかっただろう。先祖伝来の地を離れるのは大変なことではあるが、数百メートル移動するのと村が消滅するのでは全く違う話し。
江戸時代の宇都宮(参考)
天正18年(1590)宇都宮仕置が行われた舞台である宇都宮城。秀吉は会津に行軍した後、宇都宮城から駿府城へ入城し、9月1日京都へ凱旋した。
宇都宮城主蒲生氏が、近江国日野の商人や職人を呼びよせて住まわせたところが日野町(現二荒町)。この頃はまだ、上方と坂東で文明の差があったのだろう。
長谷川角行の法脈を継いだ二世が暮らしていたのが鉄炮町。続く三世の生誕地が押切町。
蒙古軍を追い返す神風を吹かせた宇都宮大明神(総大将が宇都宮氏)。

富士山信仰からみた「彦間浅間山」登山
栃木県佐野市下彦間町と足利市名草中町の境界にある彦間浅間山。佐野市側の山頂には、赤萬字講の先達 金山清行の講社が明治6年に建てた石祠があり、浅間大神(富士山の神様)を祀っていた。下彦間の浅間社がありますよという山名。

佐野市と合併する平成17年(2005.2.28)までは、安蘇郡田沼町大字下彦間だったので「田沼浅間山」と記されていることもある。
上毛電気鉄道 富士山下駅(群馬県桐生市)のホームでとまどう富士登山客の話しとは違って、東武佐野線田沼駅が最寄り駅であるのは間違いない。田沼駅から9km距離がある彦間浅間山。
佐野市下彦間町「憩い館」前の中央登り口から、山頂の浅間社までは約1km、30分ほどで登れる。

中央登り口(県道208号飛駒足利線沿い)にある、寛文5年(1665)の小松石で作られた庚申塔は、佐野市指定文化財になっている貴重なもの。



全く関係ないことだが、1665年に描かれた フェルメール「真珠の耳飾りの少女」作品として少女と猿は同じ歳。
現在の神奈川県足柄下郡真鶴町より、江戸の石問屋が仕入れて、海運・舟運(江戸川・渡良瀬川・旗川・彦間川)で佐野まで運ばれてきたのだろう。作られてから359年、真鶴の小松石が銘石と呼ばれるのにも納得。

箱根の火山から流れ出た溶岩が、海に流れて冷え固まった石。40万年前の溶岩。


足利市渡良瀬川の「せせら」 企画展掲示の渡良瀬川改修 完成を記念した絵図(複製)
中央登り口

登り口の巨大な庚申塔は、寛政12庚申年(1800)に建てられたもので、側面に大網当地出現石と記されている。佐野市閑馬町大字大網は彦間川沿いで距離も近いが、運ぶのは大変そう。

登山道には、庚申塔が多く見られる。無量寺の境内を削って県道208号が作られたそうなので、須花峠の庚申塔がここに集められているのだろう。足利市側にも129基が集まる「須花の庚申塔群」がある。

登り口からすぐ庚伸山の阿弥陀堂。無量寺の本尊であった阿弥陀如来像や、薬師如来像などが祀られている。お堂の脇に井戸あり。


9コースが用意されている極楽往生にて、最上級コースで迎えに来てくれる阿弥陀様(上品上生)

素朴な造りの薬師様
死後には山に行き、33年経つと山の神になるという考えのほか、西方極楽浄土に住まう阿弥陀如来が来迎して極楽浄土往生するという考えがあった。無量寺は死後に行く山であり、極楽浄土へのゲートだったのだろう。
富士山信仰では、阿弥陀様と薬師様と大日様の三尊が「富士曼陀羅図」に描かれたり、山頂の薬師ケ岳(現在は読み替えて久須志岳)で祀る薬師如来をさす裏薬師という表現や、富士山で見る御来迎(ブロッケン現象)など、明治になり仏教色が一掃されるまで、富士山の主要な仏様であった。
彦間浅間山の中腹にある不動明王像を大日如来とみなす人もいたかも知れない。

鐘撞堂の鐘は平成5年に寄進されたもの。昭和20年に供出された無量寺の鐘は、延享3年(1746)天明鋳物師の作。『田沼町史第四巻』に、延享元年の古文書(鐘撞堂建立の議定書)が記されている。

軽く引いて、手を離すと良い鐘の音が広がる。

海抜200mの辺りまでが庚伸山か。この先はアップダウンしながら登って行く。

落葉で滑りやすい場所には手摺やトラロープが設置されているので、その区間だけでもグローブ推奨。
子育観音像

平成坂を登り切った先にある子育観音は、寛政元年(1789)に麓の高野谷戸・竹ノ沢などが奉納したもの。

観音様が胸に抱く子供は手を組んでいて、おにぎりを持っているようにも見えてくる。
不動展望台

展望台から見える日光男体山は、日光富士という佇まい。

展望台の不動明王と、奉納されていた木剣。

壊れやすい石燈篭の火袋だけが残されている。

迦楼羅炎の目やくちばしは見当たらない。

安政7年(万延元年1860)60年に一度の庚申年に「小坂矢ノ沢講中」が奉納した不動明王。中央にある(矢と沢)の間にある赤い点が小さなノ。
小坂の話
県道208号の南にあった山城、須花城の別称は小坂城。矢の沢から須花城跡南面の峠を抜けた先にあるのが足利市名草下町大坂。歩きであれば現在も通り抜けられる峠道には、三猿が刻まれた石祠や石仏などがある。
正月元旦の出陣 (戦国時代)
足利長尾顕長の兄が、上州太田金山城の由良家。
佐野家当主宗綱の弟が、上州桐生佐野家である桐生城主。
実質的に、由良兄弟と佐野兄弟で争っていた。
佐野家の客将である小野家は、山間部で佐野と桐生をつなぐ要衝の飛駒を守っていたが、長尾顕長に攻め落とされてしまった。腹を立てた佐野宗綱が天正14年(1586)正月元日に出陣し、現在の佐野市下彦間(須花坂)にて、討ち取られてしまう。佐野家の家臣は元日の出陣を嫌がったという。
宗綱の死後、佐野家は小田原北条家から養子を取ったため、当主を討ち取った長尾家も佐野家には手が出せなかった。
飛駒を守っていた小野家兄弟
小野家当主である兄は飛駒根古屋の小野城主。城主の弟は成龍院という号であったので、下彦間の鎮守 慈眼大明神別当(現宇都宮神社)本山修験成龍院小野家の祖か。修験者の家系などは血が続かなくとも、弟子や幸手不動院(埼玉県春日部市小淵にあった本山修験)から紹介される養嗣子があるだろう。
小野城主の死後、城主の息子は京都聖護院にて本山修験となり根本山神の先達となった、これが後の飛駒山大学院。
成龍院が手引きしたと考えれば、本山修験になったのも理解できる。滅亡した桐生佐野家の旧臣が安蘇郡入飛駒村の根本山神別当 本山修験大正院になっているので、口添えも得られただろう。
金山清行は幼少期に、飛駒山大学院の筆子(寺子屋の生徒)として、時の法印に学んでいる。大学院は明治の修験禁止まで続き、根本山神社となった。飛駒の神職小野家は半世紀前に断絶し、小野家跡地は根古屋森林公園の管理事務所になっている。
飛駒浅間山


江戸時代、仙元大菩薩も富士山の神仏(仙元大日神)

小野城があった飛駒町の要谷山には、山中の巨大な岩に仙元宮(浅間社)があり、浅間山とも呼ばれている。

この山に赤萬字講の先達 金山清行が籠り堂を建て修行をしたという。山城の郭を利用して、平地にお堂を建てたのだろう。
不動明王像「小坂矢ノ沢講中」から、話が大きくそれてしまったが、下彦間は争いの最前線であり、小坂も須花坂も騎馬武者が走っていた峠道だったという話し。
それっぽい岩
不動展望台から先は、岩場が出てくる。

岩が多くなってくると、ちょっと富士山ぽい。
赤萬字講の講員から「亀岩」だの「獅子岩」だのと呼ばれていそうな岩も見られる。富士登山では巨大な岩も登拝ポイント。
わからない石祠

山頂の手前、南面の谷に向かって石祠と石灯篭が建っている、この急な谷を登ってくる参道があったのか。

建っている灯篭の竿石には「願主 当所・・・」と記されているが、下部は枯れ葉に埋もれて見えなかった。
斜面には台石がひっくり返っているので、対の灯篭が谷に落ちているのかも。

少し登ると頂上の浅間社が見えてくる。

水盤は明治7年(1874)6月吉日。浅間社は明治6年3月吉日の奉納であり、祠の額は浅間大神。

富士山が良く見える場所なのに祠は南に向いて建ち、水盤と石祠の間を登山道が通っているので、登山道整備時に移動させたのかも知れない。

気象条件が良ければ富士山が良く見える。

携帯電波良好の山なので、靄がかかっているときにも山名表示アプリや富士山コンパスアプリで富士山の場所が確認できる。(富士山コンパスによると、約84㎞先に富士山)

浅間社 向背柱越しの富士山。

曇っていて見えない時には、祠の前に立ち、水盤の左端の延長線上に体を向けて「山中湖 富士山ライブカメラ」と検索すれば、雲の向こう側にあるリアルタイムの富士山が見られるかも知れない。

金山清行は、明治8年(1875)扶桑教会の教導職補事務員となり、清行という行名を使わなくなるので、赤萬字講からも離れているのかと思う。
明治7年奉納の水盤は、下彦間の赤萬字講最後の奉納物になったのかも知れない。清行は群馬県邑楽郡渡瀬村大字傍示塚村の赤萬字講大先達 荒井仰行の門人であり、赤萬字講自体は「扶桑教赤萬字本部教院」として、明治・大正時代になっても、二世・三世の荒井仰行に引き継がれている。

足利市名草中町の石尊山には、大願成就(富士登山33度)を果たして大先達になった赤萬字講 二代目荒井仰行が、明治6年11月に建てた石祠がある。台石正面には、先達 金山清行の名が記されている。
彦間浅間山の石祠の8か月後に奉納されたもの。

石尊山の石祠は、北猿田河岸の石工 高瀬喜三郎が作ったもの。
石=河岸の関係が見られる例のひとつ。
足利で盛んだった大山講、御岳講・男体講・根本山神。気に掛けるポイントは何でも良い。関係があるかと考えて登山をしていると、登山タイムは伸び写真は増えてしまう。健康登山がしたい人は、それなりの靴を履いてサクッと登ってしまうのが吉。
気が付いたことは、その場で書き残さないと、写真を見返しても読み取れないことがある。有形物は風化もするし片付けられてしまう場合あり。



彦間浅間山から遠望
ps. 桐生城を落とし桐生佐野家を滅亡させたのは由良兄弟の父。入城して桐生城主となった。桐生城主であった佐野家弟は飛駒経由で佐野に逃げ帰っている。
60年に一度の庚申年は、富士山の御縁年として富士登拝者が増加した。彦間浅間山の中央登り口の庚申塔(1800)や、不動展望台の不動明王(1860)の奉納された年にも、登拝シーズンの富士山は賑わった。