丸万字講 正田正行の富士登山三十三度碑に見る講中・支援者

栃木県足利市田中町の女浅間神社にある、丸万字講の先達 正田正行の富士登山三十三度碑が建てられたのは嘉永元年(1848)四月。

嘉永二年四月に 正田正行の大願成就碑が建てられ、喜びが北口に表される。

足利市指定文化財「回漕問屋忠兵衛の石燈篭」と同じ、北猿田河岸の石工 高瀬鹿蔵の作であるが、表面の剥離がひどいため年々読めなくなっている。四字熟語である〇運長久の頭は読めないので、国でも家でも武でもOK

どちらの石碑も四月に建てられたもの。初山(富士山の山開き)は六月なので、登山三十三度達成が1847年、大願成就により大先達になったのは1848年だろうか。

 

 

全く関係ないが、葛飾北斎の没年が嘉永二年四月。日本映画『HOKUSAI』では、決して動かない北極星にちなんで画号を北斎にしたというシーンがある。また川柳では「卍」という柳号を使った北斎。正田正行が大先達になったのは、そんな「画狂老人卍」が数え90で亡くなる頃の話し。

 

 

 三十三度碑に見る講中・支援者

足利町には足利学校があり、学力向上によって町が発展したのかと想像していた。実際は近江商人や新潟、東北から移り住んできた人によって形成された町なのだという。

 

 (参考) 

足利買場・67 日間の航海を終えて

 

 

足利新田町の先達 正田正行の三十三度碑に見る、近江屋・日野屋・釜屋などの屋号は近江商人を連想する。買次や醸造業で活躍していそう。

 中町 近江屋久兵エ

  日野屋新助

 中町 釜屋重兵エ

 

 

 買次商 釜屋重兵エ

天保八年(1837)十二月の足利新田町を、明治期に書き写した古絵図に、新田中町(通称新中町)の「釜屋重兵エ居宅買場」が記載されている。釜屋は足利買場(織物市場)の買次商だとわかる。

 

正田正行の三十三度碑や上記古絵図の他、佐野市飛駒町には根本山神の道標「一り十一丁目 野州足利新中町 釜屋重兵ェ」が現存する。黒沢西川に沿って根本山道を登って行く山の中にあり、現在は倒木や土砂崩れが多い危険な古道。

写真の西川左岸はコンクリートで整備されているが、その上の道は土砂に埋まっている。戦後もこの道は、マンガン鉱山の労働者が歩いて職場まで行く通勤路であった。

掘り出したマンガン鉱は索道(スキー場のロープリフトのようなもの)で、西川下流の花木まで運び、小型トラックに乗せて足利に運んでいた。閉山後に花木は無くなり地図にも地名が記載されなくなったが、当時は飛駒村黒澤の花木集落が、飛駒足利線の起点であった。

足利市通二丁目の通称井草通りで、県道67号に当たるところが県道208号飛駒足利線の終点。

釜屋がいつまであったのかは不明だが、重兵エが道標を建てた根本山道から飛駒足利線が始まって、釜屋重兵エ居宅買場があった近くに終点があるというのは面白いと感じる。重兵エが歩いた根本山への参詣路とかぶる道筋もあるかもしれない。

 

 三十三度碑に見る甲州

正田正行の三十三度碑にある甲州屋文七と甲州屋長蔵。差別化なのだろうか、屋号にこだわりを感じる。

 

正田正行の三十三度碑と大願成就碑に見る「小沼仁兵衛」の話し。

 三十三度碑 中町 同(小沼)仁兵エ

 大願成就碑 中町 小沼仁兵衛

 

小沼仁兵衛は、新中町で薬種商「小松屋」を営む店主の襲名。江戸時代は、小松屋仁兵衛とも称していた。上記の者は仁兵衛高徳。

 

明治期の小沼仁兵衛 富士山・太陽・たなびく雲からの帆先・跳ねる波と岩礁・女子供の目線・女児の髪・指先・袖の紋に至るまで「胃活」に視線誘導するこだわり。

 

明治期の小沼仁兵衛 店の前が現在の県道67号桐生岩舟線(通称中央通り) 旧50号という人もいる。 N↓

 

  N↑

現在でも小松屋・仁兵衛の名を見られるのが足利のすごいところ。鎌倉時代建立の鑁阿寺が残っているのはさらにすごいこと。足利東映プラザ劇場は無くなったが、釜飯がおいしい銀釜も、この立地で商売が成り立つのがすごい。

 

 人穴に見る下野足利町小沼氏

 富士山の西の裾野にある人穴

先代の仁兵衛富久の娘、寛政七年没(1795)の供養碑が、世界遺産富士山の構成資産である「人穴富士講遺跡」に建てられている。

字面だけ拾えば「富久娘」であり、看板娘として活躍しそうだし、縁起も良さそうだが、下野国足利市通2丁目)の薬種商の娘の供養碑を駿河国富士郡人穴邑(静岡県富士宮市人穴)に建てる理由があるのだろう。

 

正田正行の三十三度碑が嘉永元年(1848)、年一回の富士登山として33年を引いても富久の娘の没年には20年足りず、富久の没年から考えても正田正行の講中ということはない。人穴にある丸万字講の石碑は、文政十一年(1828)六月に建てられた武州忍領小針村の大先達 渋澤徳行の供養碑のみであり、仮に富久が徳行の講中だったとしても、先達でもない家族の供養碑を手配してくれるとは思えない。

 

小沼氏の供養碑は丸宝講の碑塔群にあることから、浄土院大日堂を管理していた赤池家に建立を依頼したのは丸宝講だと思われる。丸宝講では女子供の供養碑も、赤池家を通じて人穴に建てていた。

大先達 渋澤徳行と比較しても、丸宝講の供養碑は全体的に小さい。黄色い数字は記されている戒名の数。赤文字は女性の内訳、その下は男児女児の内訳である。左から4番目・8番目などは女子供だけの供養碑。

 

赤池家の資料に、丸宝講との記録が残されている。供養碑を一基建てるのに丸宝講が支払った代金の一例では、地代が一両、石碑が三両。

 

下野国下総国

ここにある丸宝講の碑塔には下州(ここでは下総国をさす)と記されているので、仮に下野足利町小沼氏の供養碑が渋澤徳行の近くに建てられていた場合でも、境内を整理するときに丸宝講の碑塔群に紛れ込む可能性が微レ存(微粒子レベルで存在するかも知れない)

 

 西の浄土 人穴

富士山のほぼ真西に位置する人穴。西の裾野を通り抜ける中道往還(甲州街道)沿いにあったので、参詣者の他にも休息に立ち寄る者もいただろう。

人穴浄土門は、阿弥陀仏が住まう西方極楽浄土へのゲートであり、人穴は西の浄土であった。

 『富士講唱文独見秘書』には「ふじのすそ野の西口に南無阿弥陀仏の浄土ありぬる」という歌が記載されている。

 

下野足利町の小沼氏は浄土宗の宗徒(南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで、極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰者)なので、屋号の小松屋も、浄土宗開祖 法然上人の歌にちなんで付けられたのかも知れない。

小松とは「上人が住まう小松谷の空に浮かぶ雲を、枝で支えているかのように見える、樹齢千年はありそうな松」のこと。

人穴の供養碑に記される小沼氏も院号・譽号がつく戒名であり、お墓は足利の浄土宗法玄寺にある。

 

 人穴碑塔群の情報を、誰から得たのか。

 供養碑を建てることを決めたのは誰か。

丸宝講が赤池家に依頼して建てた供養碑と仮定したとき、誰が丸宝講に依頼をしたのかが気にかかる。色々なパターンを考え付くので、勝手に妄想するしかない。

 

江戸川宝珠花河岸に立ち寄る可能性がある人物は無限。

薬種商であれば、江戸日本橋から薬を仕入れていただろう、飛脚や回漕問屋から情報を仕入れたかも知れない。

合薬を行商する近江商人が店に立ち寄ったり、となり近所に住む釜屋なども情報源になったかも知れない。

伊吹山もぐさを仕入れていた足利の小泉藤蔵や上州桐生の釜屋も気にかかる。

桐生の近江商人 近江屋(矢野家)の古文書に、小松屋仁兵衛の名を見る。

富久の娘が人穴の話を聞けば、供養碑建立を遺言したかも知れない。同じ供養碑にある男性の親族・友人知人が建てたのかも知れない。

武州小針村 澁澤徳行の門人である、野州久保田村の大先達 山田第行から人穴の情報を仕入れたのかも知れない。

etc…