丸宝講と足利。江戸川の河岸場と近江商人の話

丸宝講と足利

江戸初期より江戸川を開鑿。下総国葛飾郡宝珠花村は川で分断され、東西宝珠花村になる。江戸川右岸の西宝珠花河岸は、江戸川舟運の寄港地として栄えた。

 

浅間社を崇める宝珠花村の人々が、富士登拝のために作った講社が丸宝講。

 

下総国武蔵国は川を国境にしていたが、江戸川右岸にある飛地の西宝珠花村は下総国であった。時代を無視して乱暴に言えば丸宝講は千葉県発祥の富士講

 

渡良瀬川舟運の最上流である足利の猿田河岸から、年貢米や消費都市江戸へ物資を2日で運んだ船に乗って下れば、西宝珠花は近い。

 

宝珠花~足利間にある関宿・古河・佐野・館林にも丸宝講はあったので、足利に丸宝講社or講員があってもおかしくないが、実際にあったのかどうかは不明。

 

群馬県館林市にある丸宝講の富士塚と、明治15年の(富士登山)七十五度御礼碑。江戸時代から登拝していたのだろう、先達の役目であっても75回登るのは大変。

 

栃木県佐野市伊保内には丸宝講(先達 廣山照行)と丸万字講(先達 岡田廣行)があった。現在の伊保内には、明治になり冨士一山教会の傘下となった丸万字講が建てた「仙元大神」石祠だけが残る。額は「冨士一山」

 

丸宝講の痕跡としては、伊保内から少し北上した佐野市田島町の坂和神社の境内にある浅間神社にマネキがある。数年前の時点で、社殿の屋根が半分ほど崩落して倒壊しそうな状態であった。

 

 

 

宝珠花御三家

河岸場として栄えた西宝珠花で、宝珠花御三家と呼ばれた有力者に釜屋があり、近江国辻の鋳物師を祖とする近江商人の子孫だという。

近江商人の行商する漆器椀や合薬は有名であったが、釜を背負って行商するわけにはいかないので、鋳物師から廻船業や醸造業に職を替える者がいた。

近江~会津間で行商する人が増えた背景には、藤原秀郷の子孫であり近江日野城主・会津若松城主・下野宇都宮城を務めた大名「蒲生氏」の絶家があるという。多くの浪人が出たのだろうし、会津や宇都宮を知る者もいただろう。

 

足利の近江商人(参考)

 近江国の日野商人である中森彦兵衛が、下野足利町へ出店して酒造業を始めたのは宝永元年(1704)。成功者がいる町には立ち寄る近江商人も増えただろう。昭和33年(1958)調べの「栃木県清酒製造業従業員名簿」には、足利市の中森酒造株式会社 従業員7名が記載されている。戦後まで続いた酒造会社もなくなってしまった。

 明治27年の「足利市中案内双六」より抜粋 通5丁目 酒醸造 何代目かの中森彦兵衛
 *足利市ではなく市中。市制施行は大正10年1月1日。

 

栃木宿(栃木市)の近江商人(参考)

 足利藩の陣屋があった日光例幣使街道栃木宿は、巴波川舟運の集積地として栄えた。近江国守山の商人 善野喜左衛門が醸造業の釜屋を出店したのが宝暦年間。その子孫は絵師 喜多川歌麿と親交があったという。親族が営む釜屋も増えて栃木宿に釜屋一家が出来た。

 

 

宝珠花河岸の浅間山

西宝珠花河岸の富士塚浅間山)は巨大な塚であり、寄港する船からの参拝者も多くいただろう。

浅間社の鳥居扁額(春日部市指定文化財「宝珠花神社扁額」)は、西宝珠花の信徒が富士登山121回を記念して 天保4年(1833)に奉納したもの。単純に年1回と考えて 正徳2年(1712)、登拝シーズンに2回登っても60年、熱意と財力を感じる。

 

明治になり江戸川右岸の飛地であった西宝珠花は、埼玉県に編入。西宝珠花の浅間社は明治40年(1907)他3社と合祀されて宝珠花神社に改称した。昭和28年(1953)河川改修のため、宝珠花神社と富士塚を現在地に移転。先祖伝来の地を手放す条件のひとつが村の全体的な移動であれば、巨大な富士塚も当然移築。

 

明治期の丸宝講は、扶桑教丸宝本部教院となった。

教院長を務めた村瀬寶(行名 寶行栄山)が 明治27年(1894)に72歳で永眠。翌28年に建てられた丸宝本部の富士講碑には、足利からの寄進も記されていた。

明治28年に建てられてから128年、村の移転も乗り越えた上記富士講碑も、1年ほど前にかたずけられ姿を消している。

富士講碑があった場所は、現在駐車場になっている。   ↓



 

江戸川の上流、西関宿向下河岸の浅間宮

江戸川流頭部にあった川関所、関宿(せきやど)関所では船改めをするため、関所が閉まる夜間は基本通行止め。

川を渡る通行人を取り調べる役人が、江戸川を通る数多くの船荷まで改めることは不可能なので、関宿三河岸の河岸問屋に業務委託をしていた。船主は問屋に手数料を支払って通行手形を書いてもらい、それを関所に提示して通船した。

 

足利~江戸間の川船改めは、関宿関と中川番所の二か所で行われ、明治3年(1870)に廃止されるまで、入り鉄砲出女の取り締まりをしていた。

 

江戸川の開鑿で、宝珠花村と同様に町が東西に分断された関宿。江戸川右岸の飛地になった西関宿向下河岸の富士塚と浅間宮が、明和9年(1772)の絵図に描かれている。

 

浅間宮には、享保20年(1735)に奉納された水盤があり、少なくても290年以上の歴史がある浅間社。船宿の宿泊客にも参拝に行く者がいただろう。

 

          大問屋と呼ばれた関宿河岸の有力者、喜多村家の家紋。  ↑

向下河岸の問屋「喜多藤( 喜多村家)」が奉納した、家紋入りの水盤が境内に現存する。

 

浅間宮に奉納された絵馬に描かれている水屋も喜多村家が奉納したもの。喜多村家は近江商人の子孫であり、水屋や水盤だけではなく富士塚作りにも協力しているのかも知れない。

 

西関宿の話ではないが、古くから「富士山は近江国の土で出来ていて、その跡地が琵琶湖になった」という伝承あり。琵琶湖や近江富士藤原秀郷の大ムカデ退治伝承地)を見聞きしていた近江の商人であれば、富士塚造りにも協力していそう。

西関宿の富士塚に浅間沼があった。これが富士塚由来の沼であれば、出来る過程を富士山と琵琶湖に見立てたか。

 

 

余談

西関宿浅間神社境内社で、文政8年(1825)に向下河岸講中が再建した「水神宮」石祠の正面にある卍紋には、その上に三峰マークが付かないので、神社のシンボルなのだろう。西関宿浅間神社の社殿は明治9年に再建したものなので、上記の絵図の社殿とは似ていない。水害が起こる地域にて浅間宮の水塚を作れば、それはもう富士塚

 

 

宝珠花~足利間には、谷中村の富士講もあった。渡良瀬川遊水地を作るため住民の移転が始まる頃には、谷中村の先達も富士登山どころではなかっただろう。先祖伝来の地を離れるのは大変なことではあるが、数百メートル移動するのと村が消滅するのでは全く違う話し。

 

江戸時代の宇都宮(参考)

天正18年(1590)宇都宮仕置が行われた舞台である宇都宮城。秀吉は会津に行軍した後、宇都宮城から駿府城へ入城し、9月1日京都へ凱旋した。

 

宇都宮城主蒲生氏が、近江国日野の商人や職人を呼びよせて住まわせたところが日野町(現二荒町)。この頃はまだ、上方と坂東で文明の差があったのだろう。

 

長谷川角行の法脈を継いだ二世が暮らしていたのが鉄炮町。続く三世の生誕地が押切町。

南光坊天海が14歳の頃、修行をしていたのが粉河寺。

蒙古軍を追い返す神風を吹かせた宇都宮大明神(総大将が宇都宮氏)。