下野国の根本山信仰と富士山信仰(五年ぶりの林道作原沢入線の全線開通を記念して)

2024年4月22日に、5年ぶりの全線開通となった林道作原沢入線。

ゴールデンウイークが始まる27日、栃木県佐野市作原町から群馬県みどり市東町まで行き、群馬県側の作原沢入線起点(蚕影神社前)でUターンして、群馬県側の作原沢入線終点(佐野市作原町の宝生峠)から根本山登山をしてきた。

 

 

蚕影神社前にある、群馬県側の起点標識。

 

宝生峠の空地は、虎ロープで封鎖されていた。

ここから、左手へ登って行く。

 

地図で確認すると、富士登山っぽく感じる。

 

江戸時代の根本山神は、下野国彦根藩領飛駒村の大學院と、同じく彦根藩領入飛駒の大正院という2つの里宮があった。宝生峠から入山すると、大學院の本社である根本山神宮が建っていた十二山根本山神社に近い。

 

宝生峠からの登山道は、十二山の分岐点で佐野市飛駒町黒沢からの根本山道(上記の図では熊鷹山からの登山道)と合流するので、江戸時代の道標「二丁目 野州足利新中町 安田孝助」や「壹丁目」を見ることが出来る。一丁は109mほど。

 足利市通2丁目の旧家。

 

 

 本山修験の大正院と大學院

佐野市飛駒町黒沢からの根本山道には野州足利新中町の人達が奉納した道標がいくつか現存している。

足利町は、裏町(現在の足利市栄町)にあった大正院(入飛駒の根本山神別当 大正院の足利別院)の霞であり、大正院の「長日護摩講中」である足利町の人達が、十二山の(大學院の)道標を建てていることは大変興味深い。

 

明治初期に政府から出された「神仏判然令」や「修験宗廃止令」によって、大正院大學院は修験をやめ神職となり根本山神社になった。それ以降、修験の院号は使われない。

 

 

  十二山根本山神社

 「本地佛薬師如来十二神将安置跡」

 

「十二山」とは、根本山神の本地仏である薬師如来と、薬師如来を守護する十二神将が祀られていた山であることから付けられた山名。群馬県に多い他の十二山とは違い、薬師如来の守護神を由来としている。(←十二山神社にある石碑には、そんな意味合いの事が記載されているが、個人的には薬師仏の誓願である「十二の大願」から来る山名ではないかと考える。)

 

山の名前というと山頂を連想すると思うが、根本山神社の周辺一帯を指す。江戸時代、ここに大學院の講中が建てた、総欅造の根本山神宮本殿と木造拝殿が建っていたが、明治期に火災で焼失したため、社殿も十二神将も現存しない。

 

大正院が発行した根本山絵図では、本地仏である薬師如来から「薬師ガタケ」と記載され、根本山の山蔭にある大學院の本社については触れられていない。

 

数種類ある絵図の中には、「飛駒口拝所」として大學院の根本山神宮(現十二山根本山神社)を示しているものがある。

 

十二山は丁半博打の賭場として賑わったそうで、丁半が開催される時は、寺銭を得ていたという。

 

領主が桜田門外で暗殺され、彦根藩祈祷所を謳っていた根本山信仰は廃れるが、十二山には明治29年から昭和2年まで祀職の人が住んでいて、倒壊した建物跡が残っている。

 

 

篆書の「根本山」がお洒落に感じる水盤。

 

渡良瀬川舟運で栄えた越名河岸中や越名御船中。馬門河岸で栄えた馬門の人達の名が刻まれているが、裏面は苔が覆っていて読み取れない。そんな時でも、事前に調べておくと確認作業がはかどる。

 

水盤には「飛駒山大覚院」と記され、1文字間違いあり。

大學院であるところが覚になっていることからの妄想。

 「(學) ガクを彫るのが大変なら、ツでもいいですよ」

 「(覺) ツで良いのであれば、それでやらせてもらいます」

 

 

天明鋳物がある佐野に霞を持つ大學院ならではの、鉄燈篭の台座と奉納された斧。

 

佐野市飛駒町の根本山神社(旧大學院)で配札されていたお札。

 

入飛駒の根本山神社(旧大正院)が建っていた場所は、桐生川ダムの建設によって梅田湖になってしまったが、神社は群馬県桐生市梅田町1丁目に移築され現存している。そちらの根本山神社では、現在でも群馬県利根郡片品村東小川下小川地区にある根本山神社の氏子へ配札が続いているという。

 

十二山の神社では桜が見られた。

 

 大正院の御本社へ

十二山神社から根本山に行き、北側のコースへ進み籠り堂跡へと下る。人があまり通らないようだが、登り返す必要がなく下るだけなので、道迷いに慎重な人には良いルート。



籠り堂跡にある、表坂の鉄梯子。

 

土石流により表坂から100m流されて土砂に埋没していたのを、近年発見して掘りだしたという。江戸時代に桐生領主や野州足利郡南猿田村の山田房五良などらによって奉納された梯子。

 

裏坂に掛けられている現役の鉄梯子は、天保十二年(1841)八月六日、桐生講中・足利講中・八十宿講中による奉納。沢水が掛かる場所にあるが、180年経った今でも、しっかりしていてグラつかない。

 表坂の鉄梯子とは、留め具の向きが違う造り。

 

 

 根本山神社本社

大正院の御本社には何もないと、桐生市梅田町の根本山神社の神職から聞いていたが、彫刻だけでも一見の価値はありそう。現在は虎ロープで規制され、立ち入り禁止になっている。

根本山は2023年も3名の死者を出している危険な山。無理をしてまで見る社殿ではないし、小さな子供を連れてくるような山でもない。

 

 

「下野の黒幣(根本山の天狗)」が、火災にあった江戸の彦根藩邸で人命救助をした逸話がある。このような話を勝手に流布して許されるとは思えないので、何かしらの形で災害支援をしているのだろう。

 

 

 

 

御本社から鎖場を登り、宙に張り出している獅子岩山神へ。獅子岩の名称は富士講をしている人に刺さったかも。

獅子岩からの景色は良い。

 

 

先に進むと、根元に巻き付けられている江戸時代の大きな鎖。根がちぎれた倒木であっても、しばらくは大丈夫か。

 

 十二ノ鳥屋

アミバ(鳥屋場)から中尾根十字路へと向かう。

江戸時代には、ここで捕獲したツグミを焼き鳥などにして食べていたのだろうが、昭和22年(1947)カスミ網による野鳥捕獲が禁止される。ツグミも保護鳥に指定され、食べるために捕まえることは出来なくなった。

 

中尾根十字路から、十二山神社まで0.8km。

根本山を巻いて進む根本古道へ。

根本山のピークを通らないルートである根本古道は、人があまり通らないようなので、滑落しないように注意して歩く。修験道霊場であり修行の道場であったことを考えれば、古道が危険なのは当然なのかも。

 

十二山に出て、入山してきた方向に進み、分岐から作原沢入林道・宝生山方面へ。

 

今回は行かなかった熊鷹山は、江戸時代より安蘇富士山の別称がある山。熊鷹山の沢水が川になって流れた先にある「不死熊橋」は、安蘇冨士嶽山神の読み替え。

熊鷹山では、マンガン鉱を採掘する「十二八洲鉱山」が操業していたので、狭い坑道内で作業する人達が不死の熊と読み替えても不思議はない。採掘したマンガン鉱は不死熊橋を通ってトラックで桐生に運ばれていた。

木材やマンガンを運ぶために整備した林道が、現在は根本山の登山道として利用されている。

 

江戸時代より、富士山の神は下野(室八島)から来たという話しがあったので、鉱山名の八洲(ヤシマ)も、室八島(室八洲とも書いた)と富士山の神に掛けられたものかも知れない。

富士山の神と室八島の話は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」元禄二年(1689)にも出てくる有名なエピソード。

 

 

熊鷹山には「安蘇冨士山熊嶽山神」の石祠が祀られている。(倒れそうで倒れない木製の鳥居が目印)

 額は「山神 熊嶽 」「 冨士山 安蘇」

 

山名と言えば山頂を…  安蘇冨士山の熊嶽山神。

 

 

信者が毎年、祠の前で魚を焼いて食べている。山火事にそなえて、かまど周辺の枯れ葉を片付けてから焼いているのだろう。ちなみに、焼いている魚はコノシロではない。

「山中で直火調理など言語道断」と思われる方も居るだろうが、継続されてきた年に一度の祭事。

 

安蘇富士山の北に、薬師ヶ岳・十二山(薬師如来十二神将を祀る山)があるのは、富士講の人にとっても良い霊場に感じるポイントだったのかも知れない。

 

 

 

足利市にある足利富士山(田中町)のような低山でも、霧雲の雲海が見られる時がある。根本山に籠る修験者がいた頃は、安蘇富士山でも、山桜が咲く山を渡る早来迎のような雲の流れを見られる日があったことだろう。

 

 

 

 

 飛駒村と彦間村

時代により変化しているので「飛駒村」で統一したが、絵図や文献には彦間村の表記も多く見られる。彦根藩主の井伊直弼が領内視察に訪れて、大學院で昼食を取った頃は上彦間村。

 

 

余談

林道作原沢入線を往復して、この日にすれ違った車両は、車19台・バイク4台・自転車3台であった。

五年ぶりの全線開通から5日目では、ゴールデンウイークであっても妥当なところか。

 

以前と同様に、路面に落石や木の枝などが落ちているので、特にバイクは注意した方がよいかも。

県境付近の車道を、2kmくらい歩いてみたが、針金のようなものが多数・錆びた釘が二本ほど車道に落ちていた。こんな山中でパンクするのは嫌すぎる。