人穴富士講遺跡の丸宝講供養碑と足利の墓碑

丸宝講と足利

岩科小一郎著『富士講の歴史-江戸庶民の山岳信仰』p241に、丸宝講の最古先達 藤左衛門 寛政3没とあり、丸宝講の分布として(千葉)宝珠花、木間ヶ瀬、東魚沼、下吉羽 栃木)足利と記載されている。

静岡県富士宮市にある人穴富士講遺跡に、下州江戸川通宝珠花町の古久保氏が建てた寛政3年没(1791)藤左衛門の供養碑があり、その隣に下野足利町小沼氏の供養碑があるので、これが上記の本にある栃木足利の情報源かと思われる。

 

 小沼氏の供養碑と墓碑

人穴の供養碑正面は女性を右側に「淨徃院楊譽貞心大姉 晴乗院了譽即法居士

右面「寛政七卯年六月六日 下野足利町小沼氏」

左面「寛政七卯年六月六日」とあり、足利町の薬種商松屋小沼氏を連想する。男女両名が同年月日に亡くなっているので、墓碑さえ残っていれば見つけるのは簡単。

 

足利市巴町の浄土宗法玄寺にある墓碑の正面には女性を右側にして「淨徃院楊譽貞心大姉 了譽照光喜法居士

右面「寛政七卯年六月六日 小沼仁兵エ富久娘

左面「寛政七卯年六月六日 小松屋内 喜七」とある。人穴と足利では男性の戒名に違いが見られる。

 

菩提寺以外で授かった戒名はトラブルになりやすく、付け直しもあると聞くが、江戸時代はどうであったのだろう。

すでにある戒名に後から院号を求めた場合にも、付け直しになるか。

 

人穴富士講遺跡を管理していた赤池家には、丸宝講から水死人や若い女性の供養依頼があり、その代金や地代金を受け取った記録が残されている。講社から依頼があれば女子供でも供養碑が建つ以上、小松屋内喜七が丸宝講の先達かどうかは不明。

丸宝講が人穴に供養碑を建てる基準は、先達がどうこうというよりも、せめて極楽浄土では幸せになってほしいと願うような死因を持つ人達という印象を受ける。宝珠花河岸の有力者である宝珠花御三家が浄土宗の信徒であったことも影響しているか。

 

 仁兵衛富久の辞世

 

富久は寛政7年より前にも、院号・譽号を授かる二人の娘を亡くしている。

寛政7年は富久47歳、弥陀の土にく娘は20代で喜七は後継者候補か。二人の命日は六月六日、富士山の山開きと時期が重なるのは気になるところ

 

先に亡くした娘二人の追善供養碑が人穴に無い。喜七の戒名が異なる。下野足利町小沼氏という表現。人穴に供養碑を建てたのは小沼家ではないのかも知れない。

 

 

 余談

足利市大月町西耕地にある仙元宮には、冨士一山教会講社のマネキがある。奉納したのは下野国足利郡田中村の田部井孝行であり、元大先達として澁澤徳行、山田第行、正田正行と記載され、マネキを見た人にも足利郡田中村の講社(丸万字講)の師弟関係がわかるようになっている。

人穴富士講遺跡には、山田第行など門人らで建てた澁澤徳行の供養塔がある。極楽浄土に生まれ変わることを願った追善供養というよりも、長谷川角行が眠る地に建てられた顕彰碑という感じ。当然ながら講社によって人穴に碑塔を建てる目的は変わってくる。

 

 山田第行は、人穴の供養碑では㐧行、足利のマネキでは弟行と記されている。

 

 

 

足利の法玄寺には有名な書家のお墓もあり、墓碑の書体が特徴的。

 

墓碑の白い靄はカメラマンの服が反射したもの、レフ板代わりの服を脱ぐべきであった事例。