富士山信仰からみた「彦間浅間山」登山

栃木県佐野市下彦間町と足利市名草中町の境界にある彦間浅間山佐野市側の山頂には、赤萬字講の先達 金山清行の講社が明治6年に建てた石祠があり、浅間大神(富士山の神様)を祀っていた。下彦間の浅間社がありますよという山名。

 

佐野市と合併する平成17年(2005.2.28)までは、安蘇郡田沼町大字下彦間だったので「田沼浅間山」と記されていることもある。

 

上毛電気鉄道 富士山下駅群馬県桐生市)のホームでとまどう富士登山客の話しとは違って、東武佐野線田沼駅が最寄り駅であるのは間違いない。田沼駅から9km距離がある彦間浅間山

 

佐野市下彦間町「憩い館」前の中央登り口から、山頂の浅間社までは約1km、30分ほどで登れる。

 

中央登り口(県道208号飛駒足利線沿い)にある、寛文5年(1665)の小松石で作られた庚申塔は、佐野市指定文化財になっている貴重なもの。

 


全く関係ないことだが、1665年に描かれた フェルメール真珠の耳飾りの少女」作品として少女と猿は同じ歳。

 

現在の神奈川県足柄下郡真鶴町より、江戸の石問屋が仕入れて、海運・舟運(江戸川・渡良瀬川・旗川・彦間川)で佐野まで運ばれてきたのだろう作られてから359年、真鶴の小松石が銘石と呼ばれるのにも納得。

 

箱根の火山から流れ出た溶岩が、海に流れて冷え固まった石。40万年前の溶岩。

 

足利市渡良瀬川の「せせら」 企画展掲示渡良瀬川改修 完成を記念した絵図(複製)

 

 

 

 

中央登り口

登り口の巨大な庚申塔は、寛政12庚申年(1800)に建てられたもので、側面に大網当地出現石と記されている。佐野市閑馬町大字大網は彦間川沿いで距離も近いが、運ぶのは大変そう。

 

登山道には、庚申塔が多く見られる。無量寺の境内を削って県道208号が作られたそうなので、須花峠の庚申塔がここに集められているのだろう。足利市側にも129基が集まる「須花の庚申塔群」がある。

 

 

登り口からすぐ庚伸山の阿弥陀堂無量寺の本尊であった阿弥陀如来像や、薬師如来像などが祀られている。お堂の脇に井戸あり。

 

 

9コースが用意されている極楽往生にて、最上級コースで迎えに来てくれる阿弥陀様(上品上生)

 

素朴な造りの薬師様

 

 

死後には山に行き、33年経つと山の神になるという考えのほか、西方極楽浄土に住まう阿弥陀如来が来迎して極楽浄土往生するという考えがあった。無量寺は死後に行く山であり、極楽浄土へのゲートだったのだろう。

 

 

富士山信仰では、阿弥陀様と薬師様と大日様の三尊が「富士曼陀羅図」に描かれたり、山頂の薬師ケ岳(現在は読み替えて久須志岳)で祀る薬師如来をさす裏薬師という表現や、富士山で見る御来迎(ブロッケン現象)など、明治になり仏教色が一掃されるまで、富士山の主要な仏様であった。

彦間浅間山の中腹にある不動明王像を大日如来とみなす人もいたかも知れない。

 

 

鐘撞堂の鐘は平成5年に寄進されたもの。昭和20年に供出された無量寺の鐘は、延享3年(1746)天明鋳物師の作。『田沼町史第四巻』に、延享元年の古文書(鐘撞堂建立の議定書)が記されている。

 

軽く引いて、手を離すと良い鐘の音が広がる。

 

 

海抜200mの辺りまでが庚伸山か。この先はアップダウンしながら登って行く。

 

落葉で滑りやすい場所には手摺やトラロープが設置されているので、その区間だけでもグローブ推奨。

 

 

 

子育観音像

平成坂を登り切った先にある子育観音は、寛政元年(1789)に麓の高野谷戸・竹ノ沢などが奉納したもの。

 

観音様が胸に抱く子供は手を組んでいて、おにぎりを持っているようにも見えてくる。

 

 

不動展望台

展望台から見える日光男体山は、日光富士という佇まい。

 

 

展望台の不動明王と、奉納されていた木剣。

 

壊れやすい石燈篭の火袋だけが残されている。

 

迦楼羅炎の目やくちばしは見当たらない。

 

安政7年(万延元年1860)60年に一度の庚申年に「小坂矢ノ沢講中」が奉納した不動明王。中央にある(矢と沢)の間にある赤い点が小さなノ。

 

 

小坂の話

県道208号の南にあった山城、須花城の別称は小坂城。矢の沢から須花城跡南面の峠を抜けた先にあるのが足利市名草下町大坂。歩きであれば現在も通り抜けられる峠道には、三猿が刻まれた石祠や石仏などがある。

 

 

正月元旦の出陣 (戦国時代)

足利長尾顕長の兄が、上州太田金山城の由良家。

佐野家当主宗綱の弟が、上州桐生佐野家である桐生城主。

実質的に、由良兄弟と佐野兄弟で争っていた。

 

佐野家の客将である小野家は、山間部で佐野と桐生をつなぐ要衝の飛駒を守っていたが、長尾顕長に攻め落とされてしまった。腹を立てた佐野宗綱が天正14年(1586)正月元日に出陣し、現在の佐野市下彦間(須花坂)にて、討ち取られてしまう。佐野家の家臣は元日の出陣を嫌がったという。

宗綱の死後、佐野家は小田原北条家から養子を取ったため、当主を討ち取った長尾家も佐野家には手が出せなかった。

 

飛駒を守っていた小野家兄弟

小野家当主である兄は飛駒根古屋の小野城主。城主の弟は成龍院という号であったので、下彦間の鎮守 慈眼大明神別当(現宇都宮神社)本山修験成龍院小野家の祖か。修験者の家系などは血が続かなくとも、弟子や幸手不動院(埼玉県春日部市小淵にあった本山修験)から紹介される養嗣子があるだろう。

小野城主の死後、城主の息子は京都聖護院にて本山修験となり根本山神の先達となった、これが後の飛駒山大学院。

成龍院が手引きしたと考えれば、本山修験になったのも理解できる。滅亡した桐生佐野家の旧臣が安蘇郡入飛駒村の根本山神別当 本山修験大正院になっているので、口添えも得られただろう。

 

金山清行は幼少期に、飛駒山大学院の筆子(寺子屋の生徒)として、時の法印に学んでいる大学院は明治の修験禁止まで続き、根本山神社となった。飛駒の神職小野家は半世紀前に断絶し、小野家跡地は根古屋森林公園の管理事務所になっている。

 

 

飛駒浅間山

 

江戸時代、仙元大菩薩も富士山の神仏(仙元大日神)

小野城があった飛駒町の要谷山には、山中の巨大な岩に仙元宮(浅間社)があり、浅間山とも呼ばれている。

 

この山に赤萬字講の先達 金山清行が籠り堂を建て修行をしたという。山城の郭を利用して、平地にお堂を建てたのだろう。

 

 

不動明王像「小坂矢ノ沢講中」から、話が大きくそれてしまったが、下彦間は争いの最前線であり、小坂も須花坂も騎馬武者が走っていた峠道だったという話し。

 

 

 

それっぽい岩

不動展望台から先は、岩場が出てくる。

岩が多くなってくると、ちょっと富士山ぽい。

赤萬字講の講員から「亀岩」だの「獅子岩」だのと呼ばれていそうな岩も見られる。富士登山では巨大な岩も登拝ポイント。

 

 

わからない石祠

山頂の手前、南面の谷に向かって石祠と石灯篭が建っている、この急な谷を登ってくる参道があったのか。

 

建っている灯篭の竿石には「願主 当所・・・」と記されているが、下部は枯れ葉に埋もれて見えなかった。

斜面には台石がひっくり返っているので、対の灯篭が谷に落ちているのかも。

 

 

 

少し登ると頂上の浅間社が見えてくる。

 

水盤は明治7年(1874)6月吉日。浅間社は明治6年3月吉日の奉納であり、祠の額は浅間大神

 

富士山が良く見える場所なのに祠は南に向いて建ち、水盤と石祠の間を登山道が通っているので、登山道整備時に移動させたのかも知れない。

 

 

気象条件が良ければ富士山が良く見える。

 

 

携帯電波良好の山なので、靄がかかっているときにも山名表示アプリや富士山コンパスアプリで富士山の場所が確認できる。(富士山コンパスによると、約84㎞先に富士山)

 

浅間社 向背柱越しの富士山。

 

 

曇っていて見えない時には、祠の前に立ち、水盤の左端の延長線上に体を向けて「山中湖 富士山ライブカメラ」と検索すれば、雲の向こう側にあるリアルタイムの富士山が見られるかも知れない。

 

 

金山清行は、明治8年(1875)扶桑教会の教導職補事務員となり、清行という行名を使わなくなるので、赤萬字講からも離れているのかと思う。

 

明治7年奉納の水盤は、下彦間の赤萬字講最後の奉納物になったのかも知れない。清行は群馬県邑楽郡渡瀬村大字傍示塚村の赤萬字講大先達 荒井仰行の門人であり、赤萬字講自体は「扶桑教赤萬字本部教院」として、明治・大正時代になっても、二世・三世の荒井仰行に引き継がれている。

 

 

足利市名草中町の石尊山には、大願成就(富士登山33度)を果たして大先達になった赤萬字講  二代目荒井仰行が、明治6年11月に建てた石祠がある。台石正面には、先達 金山清行の名が記されている。

彦間浅間山の石祠の8か月後に奉納されたもの。

 

石尊山の石祠は、北猿田河岸の石工 高瀬喜三郎が作ったもの。

石=河岸の関係が見られる例のひとつ。

 

 

足利で盛んだった大山講、御岳講・男体講・根本山神。気に掛けるポイントは何でも良い。関係があるかと考えて登山をしていると、登山タイムは伸び写真は増えてしまう。健康登山がしたい人は、それなりの靴を履いてサクッと登ってしまうのが吉。

 

 

 

気が付いたことは、その場で書き残さないと、写真を見返しても読み取れないことがある。有形物は風化もするし片付けられてしまう場合あり。

 

 

 

 

 

 

彦間浅間山から遠望

 

 

 

 

 

ps. 桐生城を落とし桐生佐野家を滅亡させたのは由良兄弟の父。入城して桐生城主となった。桐生城主であった佐野家弟は飛駒経由で佐野に逃げ帰っている。

 

 60年に一度の庚申年は、富士山の御縁年として富士登拝者が増加した。彦間浅間山の中央登り口の庚申塔(1800)や、不動展望台の不動明王(1860)の奉納された年にも、登拝シーズンの富士山は賑わった。